本

『中学入試国語のルール』

ホンとの本

『中学入試国語のルール』
石原千秋
講談社現代新書1935
\740+
2008.3.

 中高また大学入試の国語について幾つもの本を書いているので、その道の人であるかのようだが、国文学の専門家である。ずいぶんと教育の世界に発言力があるような印象がある。いくつか本を読んだので、その主張する基本のところは心得ていた。だが、今回は中学入試に絞り、より視点を固定してきたように見える。
 それはまた、分かりやすくなった、ということでもある。
 形式は、実際の中学入試問題を置き、解説はまず教訓めいたところから始まり、それからその設問の解き方を指南する。子どもが読んでも分かるまいと思われるが、大人が読むと、入試問題がどのようにできているのか、納得するだろう、というものである。
 本を開くとまず「はじめに」が、「日本の国語教育は道徳教育です」から始まる。これは筆者のかねてからの主張である。私も共感する。いくら古文を学ぼうが、中学生に『源氏物語』はあてがわれない。道徳的な観点からすれば当然であろう。現代文であっても、良い子が良い市民になるための心得がそこにある。それは悪いことではない。文章読解を、自然な道徳的判断の範疇でさせることで、まずは落ち着いた読解を身に着けるという目的があるのだとすると、それはそれで問題はないのだ。
 それが12歳の子どもが立ち向かう中学入試国語となると、なおさらである。東京中心なのだろうが、実際の入信問題を並べて、筆者はそれを明らかにしていく。そう、性格に文章を読む、などということを目指す必要はない。文章が言いたいこと、選択肢が選ばせたいこと、答えさせたいこと、それが何かという点については、きっと予め確定しているのであるに違いない。
 さすがに大学入試とは違う。自分の中で思想を作り上げる必要はない。小学生が目指せばよいのか、小説の中のどこにそれが書いてあるかを見つければよいのだ。しかし、どこにあるのか、は未確定であるにしても、それが何であるのか、については実は確定しているものである。こうした点を、本書はまず気づかせる。また、これは当たり前ではあるが、行動や情景から、心情すなわち気持ちを察することが求められている。感情的コミュニケーションが可能かどうか、それはとても大切なことである。だから、親御さんにしてみれば、国語の勉強をたださせていくことだけでは、国語の問題は解けないということを自覚しておく必要がある。平生、ひとの心をよく思いやるということに生活の重心を置かなければならないのだ。
 その気持ちというものは、難関校になると、十分隠されてくる。それは、ふだんから様々な人間関係を経験することが望ましい。かといって、一人の人間が様々な体験を実際にできるわけがない。その体験を補うのが、読書なのである。読書は、たとえ擬似的二ではあっても、他人の心情を体験させてくれる。これがものをいうのである。また、その心情を、作者が隠す理由はどこにもないのであるから、何らかの言葉で指し示しているはずである。小説は謎解きの場ではないのだ。ただ、露骨に「喜びました」と書いてしまうと、絵本になってしまう。幼児の情操教育をやっているのではないのだ。さりげない情景描写からも、感情や思いは指し示すことができる。それをよいバランスで表現できるのが、腕の立つ作家なのである。
 それはベタな展開でも構わない。むしろ、勧善懲悪ではないが、希望のある善なる方向に進む展開が、子ども向けには読ませられるべきである。それが道徳である。だから、大人というものは正しい人生の方向を教えてくれる存在であり、良いガイドである。大人の気持ちを察することも、重要な課題となる。ただ、高レベルの問題を出す中学では、少しばかりダメな親というものも現れる。本書はその点も押えてある。さすがである。
 ここまで物語文について記してきたが、もちろん論説文などの読み方も扱っている。対比のテクニックなどは、もう初歩過ぎてわざわざ説明する必要はないくらいだ。しかし、実際の入試問題をこうして並べて見てくると、実に驚かされる。内容が高級なのだ。中学生はおろか、並の大人でも、よほど真剣に読みこまなければ、言っていることが理解できないという内容が多々ある。文化論も、幾分単純化されていることは多いけれども、なかなか言っていることは深く、広いのである。かなり広い知識と深い見解とを要する文章が続出である。ただ、入試問題としては、その深みを味わうのでなくても、解けるようにできている。子どもが文明論の真意を読み取り肯くという過程は必要がない。それよりも、問われていることが、ある脈略から出ていること、その根拠がどこにあるかということ、それらを形式的にでも、こなせれば勝ちなのである。本書はそれを目指している。同じことを繰り返し説明してくるから、意味不明の用語であっても、同じことをどう解き明かしているかを見破れば、正解が書けるのである。
 最後には、「言語論的転回」まで言い及ぶ。存在があって言語が生まれたという素朴な理解ではなく、言葉ありきということから存在を知るようになり、世界を決めるという考えたが現代のものの考え方の基本になっているのである。しかし、これを子ども相手にどう説明するか、それは塾教師の腕の見せ所であろう。それは子どもたちとの関係がうまく作られていなければできないことである。
 さて、筆者はこのように入試国語を分析してきて、受験生に福音を伝えようとしているのだろうか。それもあるに違いないが、強烈な批判がこめられていることを、読者は覚らなければならない。「あとがき」に触れているように、「正解至上主義」を改めなければ、「日本の教育の未来はない」とまで言い、「協調性」がそこに求められているけれども、それは「社会の歯車になれ」というメッセージにほかならない、と強く指摘している。筆者は、この思想と、猛然と対決する姿勢を示している。
 ならば、私も私なりに立ち上がろう。聖書の教義を唯一の説でのみ理解しなければならない。教会の中で信徒の信仰が一致するためには、かくあるべし。それが、この教会に所属するということなのである。果たして、教会というものは、それを頑として掲げる場所であるのだろうか。新約聖書の後半を読むと、恰もそうであるかのように主張できる要素がいっぱいである。それを権力的に推し進めた結果が、魔女裁判であり、同性愛者を犯罪者とする社会であった。いまいくらかでもそれらに反省が加えられているとすれば、教会は総懺悔して、悔い改めの灰を被り、とことん出直さなければなるまい。もしそこまでする気がないのだとすれば、私もまた、この本の著者のように、密かな怒りを保ちつつ、警告を鳴らし続け、戦わなければならない。これは本気である。




Takapan
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