本

『現代に語りかけるキリスト教』

ホンとの本

『現代に語りかけるキリスト教』
森本あんり
日本キリスト教団出版局
\900+
1998.11.

 大学の講座のテキストとして作られた本。担当教授が本を売るためにテキストを買わせる、と感じる学生もいるかもしれないが、これがあると実に有難いものだ。教授の考え方が、そこにちゃんと書かれている。いわば一年分のノートが手許に手に入るというようなものだ。それがあまりに高価だと、確かに厳しいと思うだろうが、今回はリーズナブルである。
 そんなことはどうでもいい。本書は大学生に向けて書かれたものである。それは、内容的に虚偽や推測ばかりでできているということはない。相当な根拠をもち、しかも著者の考えが明確に示されているはずだ。さらに、大学生を念頭に書いているのは、明治期とは違うから、いわば易しく書かれていることになる。複雑な研究論文の理解を必要とはしないし、誰でも開けば、言っていることは分かるというものであることだろう。複雑な注釈を入れることなく、読み物として目を通すことができよう。
 その意味で、誰もが読むに相応しいものである。一大学の内部でカリキュラムのために用いられるだけではもったいない。
 著者は、その名前から誤解されやすいが、男性である。大学教授などに就いていたが、一方牧師でもある。そして、政治学に詳しい。たんなる聖書文献だけを見つめて、重箱の隅を突くようなマニアックさをウリにしているわけではない。たとえばアメリカの政治をよく知り、国際情勢に対してアンテナを張り、研究を重ねているとなると、いまの世界がどういうことになっているのか、言いたくてたまらないという心理があるかもしれない。それでいて、キリスト教信仰篤く、聖書をどのように読んでいくとよいのか、信頼のおけるコンパスを提供している、と考えることはできないだろうか。
 だから本書は、聖書を型どおりに紹介するようなことはしない。第一章のタイトルがまず「世界」である。世界へいきなり目を向ける、そこにどうしてキリスト教が関わってくるのか、本書の前提となることを明確に示す。
 次に「自然」。進化論と創造論との関係に関心のある学生もいることだろう。原理主義的に、進化論は聖書に反するから認められない、と叫びだけでは、日本の学生は余計に冷ややかになるであろう。必要なことは逆に、創造論は現代の私たちにどう関わってくるか、ということである。何が正しいとか誤りであるとかを決めることではない。客観的に突き放して、聖書は正しいかどうかと観察することではない。問題は、読者本人の生き方に、聖書がどう関わってくるか、である。
 急ぎすぎたかもしれないが、本書が問いかけるのは結局、そこである。この後も章立てとしては、人間・生命・社会そして真理と続くのだが、現代社会や現代文明が抱える諸問題と関連づけながら、聖書には何が書いてあるのかを並行させつつ、何が正しいかを決定しようとする気配は感じられない。それは、読者が決めることなのだ。また、その決めた結果は、人によって違っていてもよいのだ。むしろ、一つに決まってしまって、現代文明が一つの道しかありえないとしてひたすらそれを突き進んでいくという、政治的に為政者にとっては都合のよいような事態を、絶対に避けなければならないという叫びが必要なのだ。
 執筆自体、私が手にした時からすれば20年の過去に戻るため、当時の神学状況や政治的背景などに基づいているという点は否めず、その後に脚光を浴びた新しい神学、たとえば女性に関することや同性愛の問題など、本書では扱うことのできなかった分野はもちろんある(但し著者はこうした問題をちゃんと把握している。本書では偶々扱っていないということである)。しかし、本書の提言を基に、新しく問題視されたことについても、私たちは立ち向かえるかもしれない。いや、立ち向かわなければならない。学生はそれを学べばよいのだ。本書の内容を、はいそうですか、と受け止めて終わりではなく、ここから始まるのである。
 それは、私も賛同するのであるが、「出会い」というキーワードで著者は説明している。a著者がその訳書に関わったせいもあるかもしれないブルンナーの言うとおりでよいのかどうかはさておき、この「出会い」という契機は、聖書において私たちをキリストに向き合わせ、キリストの働いたその時代、環境に私たちの居場所をつくる。あるいはまた、私たちがいまここで生きているその場所に、キリストを連れてくる。そして絶えず、おまえはどうか、と問いかける。あなたはどこにいるのか、あなたは何をしているのか、神がいまここにいる私に問いかける。これは、「出会い」がなければありえないことである。
 聖書的に言えば、ひとは神の奴隷である。しもべなどと洒落た言葉で言われていても、要するに奴隷である。だから神を主人の「主」と呼ぶ。しかし、それはロボットになれということでは、もちろんない。キリストは、そうならないように、私たちのしもべとなってくださった。基本的に、神が主体である。神から与えられることが先行する。しかし、私たちもまた、少なくとも自分自身にとり、主体そのものである。神と差し向かいになり、全身全霊で対応する。それが「出会い」である。
 信仰というもの、真理なるものは、その現場においてこそ、生まれ、はたらく。著者の表現とは少し違う言い方をしていると思うが、私はそのように受け止めた。それは、私の理解の仕方でもあり、私のモットーでもある。その意味で、著者の視野と全く別のものを見ているようには感じられない。
 なお、当時の大問題であったカルト宗教の問題も扱われている。いまは目立たないが、学生がそれに惹かれていく、あるいは騙されていく、そうしたことへの警告についても著者は心を痛めている様子が伝わってくる。現在でも、他人事ではない。押さえておきたい点ではないかと思う。
 入手しづらいかもしれないが、良質の、そして読みやすい本であるから、機会があれば手にとって戴きたい。実はネット通販では新刊もいま入手可能な場合があるし、中古でもいくらか出回っている。




Takapan
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