本

『小説の技巧』

ホンとの本

『小説の技巧』
デイヴィット・ロッジ
柴田元幸・斎藤兆史訳
白水社
\2400+
1997.6.

 文学には疎いので、著者についても知らないし、引用される文学も、あまり読んだことがない。それでも、大英帝国勲章まで贈られたというから、イギリスで素晴らしい業績を遺している人なのだろう。
 学者として、大学で文学を教える立場にもいたそうで、イギリス文学への貢献度は高いのであろう。また、信仰もお持ちだと調べると分かり、親しみももてた。
 本書は、新聞連載を基にして、さらに記事を書き加えた模様で、全部で50の観点から、文学の技巧を一つひとつ取り上げて描く。それぞれに、その内容に相応しい小説の一部が掲げられ、それを基に話をすることもあるし、自身の語りをたっぷりと聞かせてくれることもある。
 文学に才のない私にも、それぞれ分かりやすい話であった。新聞に書かれていたわけだから、一般の読者にも分かりやすいものでなければならなかったことだろう。だが、決して大衆に媚びたような内容ではないし、十分に単行本として力のこもった、一流の文章であったのではないか、という気がする。
 最初は「書き出し」であり、最後は「結末」という項目である。これはどうやら最初から決めていたものらしく、「序」に記している。間にある項目は、例えば「作者の介入」「サスペンス」「視点」「意識の流れ」「異化」「場の感覚」「驚き」「時間の移動」「間テクスト性」といったように、パターンにはまらず、しかも高度な専門性をも要求するようなものとなっている。後半では、「複数の声で語る」「寓話」「エピファニー」「信用できない語り手」「シュルレアリスム」「言外の意味」「思想」「怪奇」「アポリア」といった項目も並ぶ。
 先に挙げたように、大学教育に携わってきた。そのため、膨大な文学の事例を有しているに違いなく、それぞれのテクニックについて、縦横に引用し、また論ずる。文学史の知識からも説明がなされるし、作家の思想や対立する作家など、読者を退屈させる隙がない。おまけに、自ら小説家でもあるのだから、作家の心理や執筆背景についても、十分知り尽くしている。正に、本書そのものが、技巧の宝庫のようである。
 講義の感覚も備えていて、用語の定義についてもきっちりしている。皆さん知っていますよね、というのでなく、意味を示してから語り始める。例えば「アイロニー」については、「修辞学で言うところのアイロニーとは、腹の中で思っていることと反対のことを言うこと、あるいは言葉の表面的な意味とは違う意味を読み取らせようとすることである。」というところから入る。そのため、「アイロニーの表現は、解釈という行為を通してはじめてしかるべく認識されるのだ。」として、実例を挙げていくことになる。しかも、こうなると「本書の中で用いた引用文のほとんどが、アイロニーという見出しの下に論じることができると言ってもいいくらいである。」というように、興味深いところに読者を連れて行ってくれる。
 ところで、妻は小説が好きである。それは、現実逃避のためだ、という。医療従事者として日常を厳しい緊張の中で過ごしている妻にとって、この現実から心を切り離してくれる小説が必要なのだ。私が本を買うのは嫌うので、図書館で私が妻の読みそうな本を適当に選んでくるのだが、かなり何でもよいという雰囲気である。
 そんなものかなあ、と不思議に思っていたが、本書の「書き出し」において、その答えが明晰に述べられていた。「小説の冒頭は、われわれが住む現実世界と、小説家の想像力によって生み出された世界とを分ける敷居に他ならない。」というのだ。「まさに作家が我々を中に「引きずり込む」場所であると言っていい。」と続いており、短い文でこんなに分かりやすく説明ができるものなのだ、ということを学んだ。  それに対して、「結末」においては、小説が定義されている。「小説とは……「単に部分の集合として説明することのできない、有機的な全体として知覚されるパターン、あるいは構造」なのである。」のだという。こちらはしみじみと噛みしめるべき命題である。このことを実体験するために、人は今日もまた新たな小説に飛び込んでゆくのかもしれない。小説の場面だけを切り取っても仕方がなく、小説の全体が、読者と出会うように待機しているということが、まるで生き物のようにそこにいるような気がしてきた。小説は、こぢんまりと私たちの手の中に包みこまれるものではなくて、私たちを大きく包みこむものであるに違いないのである。




Takapan
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