本

『子供の「脳」は肌にある』

ホンとの本

『子供の「脳」は肌にある』
山口創
光文社新書145
\700+
2004.4.

 新書は、比較的親しみやすい説明文となる。一冊で、ひとつのことを伝えられたらそれでいい。その歴史や背景、観察や実態を紹介し、根拠ある説得を続けていくのである。だから、敬遠すべき本ではない。細長いタイプは、手に馴染むので、電車の中などでも読みやすい。細々とした注釈を参照させることは普通ないので、まるで小説を読み進むように辿っていける。
 しかも、タイトルが内容を裏切ることはできないので、関心をもつ人が最後まで伴走し続けることができるような配慮がなされている。
 一般論から始まったが、本書もまた、この路線に合ったすぐれた考察である。「心はスキンシップにより育まれる」ことだけが伝えられたら、それでよかったのだと思う。
 それを子どもを対象に述べるのは、子ども時代のスキンシップの経験が、人格形成に大きく影響するという事情による。それがそのまま大人になり、大人としての問題行動に現れることを私たちはよく見ることになるのである。
 それは著者の一つの確信によるものであろうが、幾多の実験データや実例に基づいて報告してくることになるので、説得力がある。その実験データは、時折日本人であったり、外国のデータであったりするのだが、もちろん実験がすべての国で同様になされているとは限らないのであるから、それでよいのであるが、私はもしかすると、文化的な差異があるケースをもっと捉えてもよいのではないかと思った。つまり、純粋に、手による触れあいだけが人を形成していくだけでなく、文化的な側面も影響しているのではないかという気がしたのである。同じ手を触れるにしても、文化的にそれがすんなりいく国や地域もあれば、そこに言葉がどう関わってくるが故にどうなるという背景もあるのではないかということである。
 日本ではお辞儀をしてつき合う。しかし、欧米ではしばしば握手で挨拶をする。ハグさえ普通である文化もある。鼻を擦り合わせるというところもあるかと聞く。聖書ではユダがイエスに接吻したと書いてある。子どもの頭に手を置くことはタブーである文化もあるそうだ。だから子どもを「なでなで」するのがよい、と本書にあるからと言って、それをその文化の中で適用することは決定的にまずいはずである。
 それはそれとして、触れることの効用なり意味なりについて、いろいろと知る機会を与えられたのはよいことであった。看護する意味は「手当」と言うが、確かに手を当て、触れることから始まるものであることを昔人が意識していたことは明らかである。その漢字「看」は、手と目の字から成るが、本書によると、「手をかざしてよく見る」という意味なのだそうだ。手かざしという呪いも夜にはあるが、中国の人々のみならず、聖書でもイエスが手を触れて癒したという意義は大きい。尤もそれは、手を触れると汚れたとされるような差別された人々の友になるイエスという意味がこめられているとも言えるから、単純に病気を治すというだけの意義ではなくなるのであるから、やはり文化的背景のもつ意味は深い。
 しかし、ひとで実験をすることはなかなか難しいのであるが、育てられ方による子どもの成長後のリサーチというものがものをいうとも言える故、まだまだこの分野は調査が必要となるであろう。殊にこの出版時、世間では、スマホに子守をさせるということが問題に挙がっている。その前には、テレビ子守というのがあった。テレビに比べると、スマホは幾分触覚は伴うものであろうが、母親との一体感や接触という点では近いものがある。これがどういう影響をひとに与えるのかは、実際まだよく分からない。その調査と考察の必要性について著者が注意を促したという点は、間違いなく大きなことであろう。もちろん、父親の役割も本書では取り扱われているので、その点も研究が必要となるであろう。となるとまた、シングルな親の下ではどうか、ということも気になる。ひとを形成することについての研究は、興味がつきない。




Takapan
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