本

『脳と時間』

ホンとの本

『脳と時間』
ディーン・ブオノマーノ
村上郁也訳
森北出版
\2800+
2018.10.

 時間論についてはいくらか前提となる知識があり、また考えてみたいこともあったので、このタイトルを見たときに、ぜひ読みたいと思った。時間を脳の働きから捉えるというのは、私がかつて出会った時間論とは一線を画すものだと感じたのだ。
 物理的な時間や文化的な時間というのはよくあったし、心理学的な受けとめ方もあったとは思う。だが、時間というものはそもそも脳の錯覚なのだ、とするのは大胆な捉え方だ。しかし、考えてみれば、私が思考しているまさにブレインが脳であるとすると、その脳自身を完全に解明することはできないわけだし、脳自身がどう捉えるようにできているかについては、究極的には追究できない可能性が高い。
 サブタイトルには「神経科学と物理学で解き明かす[時間]の謎」とある。そしてこの穏やかな邦題とは違い、英語による原題が指している意味は「あなたの脳はタイムマシンである」というふうになっている。脳が時間をつくり、時間を感じる。すべては脳のなす業なのだ、というふうな勢いである。
 果たして客観的な時間というものはないのだろうか。何もかも脳の虚像に過ぎないのだろうか。
 そもそも時間というものが「感覚」で捉える相手でないことは、古来の哲学が明確にしてきたことである。著者は神経生物学ないし心理学を専門とするから、哲学の話は分からない、などということはない。ちゃんと時間についての思想を押さえている。その上で、脳神経のシステムを明らかにしていくための実験や観察を重ねていくのである。
 しかし、「時間の流れを感じる」という素朴な、ありふれた感じ方は確かに前提となっているようだが、本当に時間は流れるのだろうか。私たちのほうが時間の中を流れていくという考え方もあるはずだ。もちろん、前向きなのか後ろ向きなのかという点も、近年関心が寄せられている問題だが、そこにも著者は言及している。それでも、時間なるものが流れているのかどうかは、まだまだ検討の余地があることではないかと素人ながらに感じる。
 説明は神経生物学というのか、そうした観点から用語が使われ、根拠ある成果をもたらしているものと言えそうだが、心理学の領域におけるように、楽しい時を短く感じるなどの現象と折り合いをつけていくあたりは、議論も慎重だし、また説得力もあるというものである。
 ところで前後してしまったが、時間に関する大きな二つの主流の考え方が本の初めのほうで提示されているが、これは本書を読み進むにあたり常に頭に置いておかなければならないものである。それは「現在主義」と「永遠主義」である。ここで「実在」という言葉の意味を定義しなければならないであろうが、それを見逃すことにして言うと、現在のみが実在するしかなく、過去だの未来だのいうものは実在していない性質のものであるという考え方と、時間の「今」は空間でいう「ここ」であるに過ぎず、空間には他の点もあるのと同様に、時間においても過去も未来も実在しているとする思考枠である。
 これを踏まえた中で、生物の捉える時間から、生物時計の正体、時間の伸縮感覚へのアプローチなどが語られていく。そしてアインシュタインの相対性理論も重要な論拠として取り出され、一時相対性理論の解説が盛んに行われる。このような検討を重ねながら、神経科学の解説も興味深くなされて本文は進んでいく。やがては自由意志について考えるという、まさに哲学的な領域に飛び込んでいくような構成となっている。もちろん、そこに数式で示し明かそうとする意図はない。読み物を読む読者を意識して、時にイラストで関係性を明確にしながらも、言葉そのものは理解しやすいものが選ばれて語られていく。但し、だからと言って内容的に分かりやすいと一概に言えない点は、誰もが予想する通りである。
 ところでタイムマシンであるということのひとつの着眼点は、人が、未来を想定する能力があるということのようであった。百年後の未来を想像して、それのためにいま何をなすべきか、といった問題を考えることができるのは、人間ならではだというのだ。動物に時間が分かるのかどうなのかというのは最終的な解決が与えられるかどうかは分からないものなのだが、少なくとも動物が、将来のある時点での姿を想像してそれを目的として何かを行うという様子は見られない、そういうところに、人間の脳が時間を想定して目的意識をもって行動できるという特殊性を明らかにしていくのである。そんなのは当たり前ではないか、と思う人もいるかもしれないが、実のところ人間だけに委ねられた時間意識であると著者は言う。
 もしそれが本当ならば、私たちの哲学はけっこう塗り替えられていく可能性を秘めている。認識論は私たちの認識能力のほうに、存在の根拠を求める理論を検討したが、独自に人間が思い描く脳のプログラムが、時間を意識させ、行動を促しているという、新たな認識論でさえ展開しそうだと感じられてならないのだ。
 しかし、一生物としてヒトは、死を迎えることになる。その死を思うということにも、この脳の時間意識があったこそのものだとは言えるが、何らかの時間なるものの動きがないところで、死はどう説明されるのだろう。死は脳のタイムマシンの故にこそ存在するのではないわけだ。生きている私が出会う他者あるいは環境という世界との交流が、時間の中でなされるのでないように捉えることは、私には難しい。
 著者は哲学や言語学や物理学などの領域に立派に通用する提言をなしている。それは認める。だが、もしかすると著者のこの検討に、十分な「文学」はさしあたり入ることはなかった。また、事の善悪の意識もここでの議論に加わることはなかった。「倫理学」あたりが関わりながらも、時間論は展開できるのではないかと私は思うのだ。しかし、それはもはや科学ではなく、一種の芸術のように扱うしかないようになるかもしれない。時間が反復される性質のものではなく、一過性でいうなれば刹那的な、一期一会の世界をもたらすということは、こうした文学や倫理学の領域における時間論を助けるのではないだろうか。科学のひとつの成果としてありがたくこうした研究を分けて戴くこととして、私はそこから自分の中に働く時間意識というあたりのために、様々な人文科学を取り入れながら、考えてみたいものだと思った。




Takapan
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