本

『〈脳と文明〉の暗号』

ホンとの本

『〈脳と文明〉の暗号』
マーク・チャンギージー
中山宥訳
ハヤカワ文庫
\1120+
2020.12.

 視覚に関する類書が、本書の前身としてあったそうだが、それなしに新しいこちらの本を読んだ。解説を入れた伊藤亜紗さんの影響である。また、聴覚を扱ったこの話題には、深い関心があったからでもある。
 私たちの言語、その聴覚的な意義を、ひとつの仮説により、その起源を考えてみるという主旨である。殆ど聞いたことのないような説だが、だからこそこういうのは面白い。学術的にどうであるのか、私は判断する材料をもたない。あくまでも仮説であり、著者なりのその検証である。しかし目の付け所は実に面白い。
 仮説の検証については、執拗である。音符の上下の規則について、クラシック音楽の旋律を万に及ぶ数集めて、統計的分析を行う。それを根拠として、自分の考えたことを自信満々に提示していくことになる。
 自然を模倣したところに、音楽が生じている。そこへ行くまでに、まずは言語である。発音の問題なので、日本語を標準とするわけにはゆかない。英語の音で分類をしていくが、そこではちゃんと日本語も範疇に入っている。世界の言語を概ね捉えながら、一応英語を題材として展開していくのだが、破裂音や摩擦音などの区別を確かに、英語ならずとも分類するのは確かだ。それらが、自然の音との類似性の中にあることを、単純な分類から指摘していくあたりは、まず驚かされる。さらに、イントネーション、それから音楽へと進む中で、ドップラー効果という、素人にも分かりやすい原理を用いて、近づくことや遠ざかることと音の高低、あるいは音量までも説明してしまう。これもまた単純な原理で説き明かすので、読者にも納得のいくものとなっており、よく読まれているということになるのだろう。
 著者のチャンジーギー氏は、神経生物学の専門で、知覚と脳との関係の解明に努めているというので、まさに本書はその分野の研究から生まれたものであるが、一般読者のために、懇切丁寧に説明を施す。そのお喋りたるや相当なもので、ある意味で冗長すぎるのであるが、テレビショッピングの販売員が次々とまくしたてるように、世間話のようなものや卑近な喩えを繰り出しては、読者を笑わせる。この辺りが、アメリカのエンターテインメントの精神なのかもしれない。学者相手ではここまでやらないのだろうが、徹底的に読者の立つ地盤から届くような道筋をつくって、自分の世界に連れて行く。乗り越える壁は低いと言わざるをえない。
 これは、アメリカの説教に対するひとつの改革とつながるものがあるように私は感じた。高尚な聖書を読み上げるのでもなく、上から叩きつけるように教義を押し付けるようなものではなく、もっと帰納的に、会衆の生活世界から歩き始めて福音を見出すような説教が、この半世紀の中で訴えられ、拡がっている。科学についても、大上段に構えてそこから楔を打ち下ろしても、一般の人々の心に突き刺さるものではない。読者を笑わせ、生活の出来事から、優しく誘い出しつつ、また生活の中からわざわざ出て行くという意識ももたないままに、科学が掴んだ偉大な原理に納得するようにさせていく。
 しかも、その根拠として膨大なデータと、説得に相応しい図表を提供する。実に巧いと思う。たとえこの仮説が間違っていても、読者は支持し続けるのではないかと思うほどの出来映えである。思えば、これがまたアメリカ大統領選でも見られるような、熱烈な支持というものではないだろうか。そんなことまで考えるようになってしまう。
 実のところ、言っていることはごくわずかである。307頁に、三つの要点が三行で書かれているが、本書の主張はこれに尽きるのである。それを、どこかでは面白おかしく、どこかでは綿密な資料を見せながら、講談師のようにまくしたててくるのである。いや、これはすごい迫力であり、知的なエンターテインメントである。
 楽屋裏とまでは言わないが、最後におまけが付いている。本編は本編の流れというものがある。その流れを活かすために、言及したいと思いつつ作成した原稿ではあったけれども割愛した部分が別にあることがあるもので、映画ならカットされた場面に相当するし、それは販売されたDVDにだけ特典映像として収められているものである。本書にもこれがあるのだ。それ、中にあってもいいんじゃないかなとも思えるが、ひとつの作品として出すときに、別扱いとしていたのだ。それをちゃっかり載せてしまうのは、せっかく書いたのだから、という心理があるかもしれないが、むしろ特典映像のように、そこに意味を見出そうと読者は見入ってしまうものである。しっかり注目させるために、特典原稿を付け加えているというのは、ちょっと狡い。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります