『能力で人を分けなくなる日』
最首悟
創元社
\1400+
2024.4.
この「あいだで考える」も、6巻目である。十代の若者をターゲットにしているような企画である。否、「創刊のことば」によると、「10代以上すべての人のための人文書のシリーズ」と書いてある。結論、アダルトたちも読むべきだ。
本書は特に、痛い。最首悟さんは、星子さんというお嬢さんと共に暮らしている。重度障害者である。いま47歳であるという。その視座から見えるものを、私たちに訴え続け、いま87歳である。
2022年から2023年にかけて、高校2年生の2人と、中学3年生の1人と、対話が行われた。本書はその記録である。全部で4回に分けて行われ、それぞれ一定の話題と共に、対話が深められてゆく。非常に読みやすいものであり、しかも、深い。その一言に、どれほどの涙と苦労があったか、伝わってくる。否、そこには苦労しかなかったわけではないはずだ。その場面でなければ見えてこなかったもの、喜びといったものもまた、あったと思われる。が、それは第三者である私のようなものが言うべきことではない。
「章」というよりは「回」と称されているが、その対話の回のタイトルだけを列挙してみよう。「頼り頼られるはひとつのこと」「私の弱さと能力主義」「開いた世界と閉じた世界」「いのちと価値のあいだ」である。その細かな話の行方は、読者がそれぞれに味わうべきであろう。私が手際よくまとめて、「ああ、そういうことね」で終わるようなことがあってはならないのだ。
ただ、いくらかの視点は、私が学んだ限りにおいて、触れておいてもよいかと思う。
私たちは、相手がいて、初めて自分となるのだ。それは、本シリーズの「あいだで考える」に重なるものであろう。「人と人とのあいだ」がひとつの「場」となり、「あなた」との関係があって「私」ができていく。これを著者は「二者性」と呼ぶことにして、本書の通奏低音となるのである。
そして重いのが、第2回である。ここには、「津久井やまゆり園」の殺傷事件が扱われる。著者は、植松被告と関わりがある。植松本人から、著者に手紙を受けたのだという。障害者の娘に関する著書に対して、植松は自説を繰り返し、優生思想によって、その生きる価値をすべて否定するのである。著者は面会もした。だが、相手は変わることもない。こうして、能力主義という、本タイトルの核心に触れていくことになる。
その能力や価値を比べるためには、「個人」という考え方の由来について、考えてゆくのが次の段階である。優生思想について教えてもらえるし、そこにつきまとう「自己責任」という問題について考えてもらう。その問題を、西欧と日本の対比によって語るというのは、些か単純すぎるものではあるだろうが、大いに参考になる。特に私には、「いる」と「ある」の違いというコラムめいた取り扱いの箇所が、印象に残った。
西洋の言語においては、存在動詞はひとつである。その存在を問おうとして、ハイデッガーは煩悶した。西洋の存在論の歴史を暴くと挑んで立ち向かった。だが、日本語には、存在動詞は二つある。「いる」と「ある」である。著者が言うには、その使い分けは、ひとえに関係性にあるという。「まず関係ありき」というところから用いるのが「いる」であるという。万物に「心」がある、と言うと短絡的にアニミズムだと称されてしまうが、「場と自然に関係してる」ものとして、「いる」を用いるのだと著者は捉えている。主語を略することができるのも、その関係性の中にあることが既知であるが故なのだ、とも見ているようだ。
私はここから、西洋哲学なり神学なりでは「神がある」ことは話題に上るが、「神がいる」ということは全く気にされないことに気づいた。しかし日本人に伝道するとなると、この言葉は現れることがある。「神さまって、いると思う?」という文は、とても自然なのだ。「神さまはあると思う?」とは、日本人は問わないのだ。「神がある」というレベルで輸入された神学と、それに応じて考えを進めたままの神学では、しょせん神は他人事になってしまいがちである。神との交わりやつながりをもつ「いる」というものを無視した神学に染まると、神との関係性を失っても、正当な神学であるように勘違いしてしまうのだ。
本書では、キリスト教の思想から「個人」が生まれてゆくことを捉えた、坂口ふみさんの本をひとつの手がかりとして、反省すべき考え方を挙げている。それはまた、著者自身の「水俣病」との関わりにも関係している。その細かな点は、本書をお読みくださることを願う。ただ、西洋的な「閉じた世界」が、「存在が先で、関係があと」であると言い、中根千枝さんの有名な視点を取り上げ、◯ ―― ◯ という図解を以て説明している。それに対して、その逆の日本の捉え方では、●――● となっており、それは現世と来世とを切り酢為さない「開いた世界」であるのだ、というような話を展開する。
これに関して、「すみません」という日本語に対して見解を述べているのも面白い。「私は責任がない」とは考えず、「人とのかかわりの中で、私は責任を引きずって生きていきます」という意味を、「すみません」が有している、と言うのだ。それが、世界が開いているということなのだ。
本筋が「能力」だとすると、その背後にある様々な考え方をこのように提示してくるが、そこだけはこのようにご紹介させて戴いた。最後には「いのち」そして「価値」ということについての関係とあり方について、少し対話の間が空いたそうだが、触れてゆく。ここに「水俣病」との深いつながりが込められている。どんなにそこに「差別」がまかり通っていたかも明らかにする。
こうして見てくると、タイトルの「能力」というのは、最も深いところを指すものではなかったことが分かる。それは、中高生をこの世界に導く、入口だったのだ。「能力」をとやかく議論しようとしたのではない。それを入口にして、もっと深いもの、さしあたり「いのち」と呼ぶが、それへの眼差しを新たにすることが、望まれていたのではないだろうか。そう言えば、タイトルにしても「能力で人を分けなくなる日」となっており、「能力とは何か」ではなかった。日本語では重要点が最後にくるから、この要点は「日」だった。「いのち」が尊ばれ、人が互いの関係を先行させる、真の「人間(じんかん・にんげん)」となる「日」を願っているのだ。著者自身も高齢である。この後、星子さんはどうなるのか、不安もあるだろう。しかし、次の時代に、その「日」がくるのだ、という希望をもち、それを対話した若い世代に伝え、委ねるような思いが、ここに溢れていたように私は感じる。あくまでも、それは私の感じたことなのではあるけれども。

た
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イ
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