本

『ノートの書き方教科書』

ホンとの本

『ノートの書き方教科書』
丹伊田弓子監修
山と渓谷社
\1890
2011.3.

 これまでにも幾度かご紹介してきたシリーズの一つ。今度は科目毎というのではなくて、ノートをとるという行為全般についてのアドバイス。
 自分のオリジナルのノートであってよいと私は思う。だが、オリジナルというものは、一定の型を覚えたり、お手本を真似したりする中で初めてできていくものであるとも考えている。小学校で「このとおりにかきなさい」というところからノートが始まる。それがいつまでもそのままであると、とにかく黒板をそのまま書くという以外に何もできない子どもになっていくことがある。途中で、変に飾りをつけると、「いけません」などと注意する先生も中にはあるから、よけいに逆らえないという場合もある。
 基本的に、いろいろ自分でやって、失敗もまた覚えなければならないはずだ。ただ私は、ある程度のスタイルは踏襲していくべきだと思うし、最初から好き勝手にやるのがオリジナルだとは思わない。
 このあたりで、この本の扱いが分かれてくる。
 何もこんなふうにノートの具体例を示さなくてもよいのではないか、という考えもあろう。オリジナリティの欠ける子どもたちにここまで見本を見せてしまったら、この通りに真似をするだけで終わってしまう、との考えだ。他方、これは実によいヒントになり、「こういうこともしてよいのか」と気づいて、新たに自分だったらどんなふうに書くか、解き放たれたような喜びを感じる子がいるのではないか、という見方も可能だ。
 結論として、その子次第であろう。一概にどちらだと決めることはできない。
 ただ、今の子は幸せではある。ここまで面倒を見てもらえるのだ。
 ふと、遊びのことを思い起こした。昔の遊びをお年寄りから習うという「生活」か「特別」かの授業がどこの小学校にも必ずある。シルバー人材の活用にもなるし、お年寄りの生き甲斐になるのも事実だろう。あるいはまた、地域でスポーツクラブをつくるとか、児童館で遊びを教える催しだとか、この種のことには枚挙に暇がない。子どもは自ら遊ぶものだという原理があると思う私には、違和感を覚えることだらけだ。大人から遊びを教えられるなど、子どもの誇りはないのだろうか、とさえ思う。もちろん、社会的・環境的事情を理解しないわけではない。だが、概して過保護過ぎるのだ。
 子どもからオリジナリティが消失したとは思わない。ただ、子どもが遊んでよいという「自由」がなくなったことは認める。問題はそこではないかと思う。親の顔色を見ながら、この遊びをしてよいかどうか尋ねる。ゲームは一日何分まで、と親と話し合って決める。馬鹿な。子どもが自分で決めればよいのだ。大人が「危険だ」ということには耳を傾ければよいが、そもそもどういう遊びをすればどういう危険があるか、問題点があるか、そこまで見通して遊ぶのが、少し年端のいった子どものすることなのだ。そして、そういう遊びをしていくことで、実は社会性や計画性を身につけていくのだし、他人がどのように自分たちを見ているかという点まで含めて考慮できる人間へと成長していくのだ。
 ノートとは全然違うことになってしまったが、このような勉強のコツのシリーズの本にも、似た図式が存在するような気がしてならない。確かに、悪いことが載せられているわけではない。逆に、すばらしいアイディアなのだ。だが、子どもたちに私は言いたい。この本を見てもよい。そして、よいアイディアは取り入れて用いてもよい。しかし、「なんだ、こんなこと、アリなのか」とでも呟いて、「自分だったらこうしていくんだ」と、自分のためになる愉快なノートを作成してくれたまえ。そういう気概をもっていてくれたまえ。
 その意味で、この本の読者は誰であるべきか、私は気にしてみた。教育指導者のための本であるならば、結構なことだと思った。中の見本も、大人が実際に書いてみせているお手本である。だから、大人のおりこうさん向けの本でしかないのだから、教師なり親なり、が学習指導に関心のある人が、見て参考にしたらよいのだ。おそらくベストは、教師がどう「板書」するかをここから学んだらよいのではないかと思う。
 どうも、逆説めいて出版社には申し訳ないのであるが。




Takapan
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