本

『ノラや』

ホンとの本

『ノラや』
内田百
中公文庫
\724+
1980.3.

 知ったのは、猫の雑誌だった。猫についての文学三品として挙げられていたのだ。
 私は内田百閧フ作品を、たぶん読んだことがない。「たぶん」というのは、昔どこでも読んでいない、と言える自信がないからだ。ただ、幻想的な作風については聞くところがある。
 それが、本書ではどうか。まずは家に突如やってきた猫への、メロメロな愛情に始まる。ノラと名づける。そのノラが、3月だか、突如庭から消えてしまう。さあ、ここから内田夫妻がダメになってゆく。待っていても戻ってこないので、近所の人の協力を仰ぐが、情報があり駆けつけてみる度に、違う猫だということで落胆することが続く。やがて、新聞に訪ね猫の折り込みを出す。情報が増える。時に死んでいたので埋めたなどという情報があり、複雑な気持ちで出向くが、違ったということで逆にほっとするようなこともあった。幾度も幾度も新聞に出す。それでもまた同じことだった。
 内田が、もう家でダメになってゆく。食事もままならぬ、いつもいつもノラのことを考えている。名を呼んでは涙し、庭を見ては泣き崩れる。こうして泣き暮らす日々が続くのである。そして、それを文章としてこのように綴っている。さながらひとつの小説のようであるが、もう単に心の中を吐露しているだけのものであるかのようにしか思えなくなる。
 ノラは戻らない。やがてノラに似た猫が迷い込んでくる。こちらにはクルッという名をつける。これは数年いたが、病気になる。医者に頼みなんとかしてくれと縋るが、やがてクル(ッ)は死ぬ。これでまた、内田はもう涙涙の毎日となってゆく。
 確かに内田百閧ヘ明治生まれである。だが、1971年まで生きていた。その晩年の10年くらいの間の出来事であり、作品なのであろうが、まだ比較的最近の部類に入れてもよいかと思う。猫に刺身を与えるのはまだよいとしても、猫の食べ残しを人間が食べるなど、いまの私たちには信じられないような実態も描かれる。新聞への折り込みの文面も載せ、自分のことを笑われることを計算して、いわば諧謔作品として作り上げているのだ、というのなら、それはそれで天才であると言えよう。これで人気を得て文士としても一定の収入に与ろうとするのであれば、それはそれでよいと思う。だが、けっこう猫好きの読者としては、これにかなり心情を注入してしまいそうになる。それくらい、メロメロの文豪が、いつの間にか非常にリアルな存在としてここに描かれているのだ。
 野良猫へ注がれたその愛情。短いエッセイ状のものに、その都度それぞれの場面が描き込まれ、それらが結び合わされていく。だがよく見ると、一連の物語というよりも、一つひとつのエッセイの集合体である。だからやはり、一つひとつがよく練られて発表されているのだというふうにも思える。
 だから、この作品の謎を解くなどというふうにでなく、ここにあるのは、猫好きの人の心理であり、猫への愛情はどういうものかを教えるものである。そして、猫好きな読者は、ひたすら「わかる、わかる」と肯くか、「そこまでするか」とやや呆れた顔を見せるか、どちらでもよいから、「やはり猫はいいよね」で結ばれる読後感で落ち着けば、それでよいのではないだろうか。
 猫を愛する人だけが、読めばよいのではないか。




Takapan
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