本

『名のない遊び』

ホンとの本

『名のない遊び』
塩川寿平
フレーベル館
\2100
2006.4

 ちょっと見ると、「名もない遊び」なのかと思ってしまう。実際、それでも同義だと書いてある。私としては、詳しく読む前に、こういうことかな、と予想したが、ほぼその通りだったと言ってよいと思う。
 私がよく言うことである。大人が、子どもに遊びを教えるなどというのはおこがましい、と。福岡県でアンビシャス運動などと言って、時間のある大人が子どもたちに遊びを教えようなどと運動しているのは、根本的に間違っている、と。
 子どもは、大人から、ちゃんと呼び名のある遊びを教えてもらって、へぇ、と思うことはあるかもしれない。しかし、それが面白いのかどうかは別であるし、もっと恐ろしいのは、大人から遊びを教えてもらってそれで喜んでいる子どもばかりになった姿である。そんな子どもが、将来どんな大人になるというのだろうか。自分で考えようとせず、あるいは自分で何かを見つけていくことの喜びよりも、教えてもらうことばかり期待するようになっていくとすれば。
 子どもは、間違いながらも、たくましく育っていく。自ら何かを見つけていく。遠回りのようでも、効率が悪くても、子どもは子どもの生活の中から、体験の中から見出していく力を備えている。それを摘み取るようなことは、したくないものだ。
 保育の方法として、この「名のない遊び」を見出していったこのグループには拍手を送りたいが、ここでジレンマが起こる。「名のない遊び」という「名」のある遊びを、保育者が定めるとなると、すでに本来の「名のない遊び」とは次元が違っていく、というジレンマである。
 親として、子どもが遊ぶ姿を見て、干渉していくのでなく、一定の「距離」をとって見守ることを、私は一つの目標に置いている。もちろん親として、危険な目に遭わせたくはないし、できれば失敗もひどくないものにしてもらいたい。少なくとも、安全については、目を光らせておきたいと考えている。しかし、失敗もどうぞ度々やらかして、それをどうしたら乗り越えていけるか、どうしたら失敗しないで済むのかを、自分で考えて実践していける人になってほしいと思っている。
 この本には、「名のない遊び」とはつまり「愛の保育」である、と結論づけているところがある。説明するとしたら、これ以上の説明はないだろう。
 子どもたちが無心に遊ぶ姿の写真が、本にはたくさん取り上げられている。ある意味で、こざかしい理屈など関係なく、子どもたちの楽しそうな姿の写真集である。そんな気分で見ていくのが、一番楽しいのかもしれない。私は、そのようにして楽しめた。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります