本

『このゲームにはゴールがない』

ホンとの本

『このゲームにはゴールがない』
古田徹也
筑摩書房
\1900+
2022.10.

 なんといっても「はじめに」が印象的である。「心とは何だろうか」という問いから始まるのはよいとして、すぐに、幼稚園に通う娘のエピソードが始まる。本当にこのエピソードから、本書が執筆されたのは間違いないだろう。父親がつくった弁当の卵焼き、そこには海苔が入っていて、父親が凝ってものだった。帰ってきた娘に、卵焼きはどうだったかと訊くと、つい「あれ嫌い……」と口にした後、娘はそれを恥じて誤魔化そうとしたのだった。著者は、「娘が本音を隠そうとしたこと」に驚く。
 それは、娘の成長にほかならなかった。嘘がつけるようになったのだ。著者は娘を、「遠い存在」に感じ、しかし以前よりも「近い存在」になった、と告白する。論理的には矛盾するこの言明を、哲学的な議論の中で追求していこう、と告げて本論に入って行く。
 だが私は、感覚的によく分かる。子どもは自分のコントロールの内にある、と親は思ってしまうものなのだ。だが、子どもはどこかで反抗を覚える。この娘さんの場合は嘘を見破られたことで恥ずかしがったという程度だが、何も言わなくても、親に対する批判的な考えというものは懐いているものである。しかし子どもは親に常に気を使い、親が子を理解していると思い込んでいるままに任せているのである。
 などと言っていること自体が、ダメなのだ。子どものことを分かっているよ、などという思い込み。これを子どもは見抜いている。否、否、これさえ、分かったふうな口を利いているバカな妄想である。
 こういうわけで、何かを言おうとしても、それ自体が狂った言明になってしまう。
 しかし本書は、ここから走り出す。
 主軸は、懐疑論である。人間は、他人の心を解しない。他人の心を知ることはできないのか。人間の心とは何なのか。では互いに心を知っているかのように生きているということは、どういうことであるのか。しかし分からないではないか。
 言語の問題は、著者の哲学活動の本場である。ウィトゲンシュタインを辿り、またそのウィトゲンシュタインを論じる別の哲学者を頼りにしながら、他者の心の姿をおぼろげに眺めつつ、著者の論じたいことを語り続ける。一つひとつの話に熱中するならば、それなりに哲学的な思考を楽しめるという設計なのであろうか。
 しかし、本のタイトルを覚えている人は、結局この語りがどこに向けて着陸するのか、だいたい分かっている。ウィトゲンシュタインが、語り得ないことに対する沈黙を零したように、著者は、どこかに行き着く議論を想定しているのではないことくらいは、推測できるのである。
 案の定、再び幼稚園の娘さんの話が、最後に現れる。それは、自己自身一定の理解を、あの「遠くて近い」感覚に対してもたらすこととなったが、それで何かが落ち着いたわけではない。そう、ゴールはないのである。しかし、それで本書が閉じられるのかと思いきや、以外にも、夏目漱石が登場する。そして「神」で結ぶのである。尤も、その「神」については孤独すぎて空しい、というような見解をぶつける。おやおや、という感じである。
 懐疑の末に、このゲームに終わりがないと言い、漱石と寂しすぎる神。この人の人生には、「信頼」というものがあまりにも欠けている。それとも、信頼など綺麗事に過ぎず、お人好しの幻想だと決めつけて、最初から相手にしないということなのだろうか。懐疑について極めるのもよいが、全知全能であることを人間に求めないという形で、信頼の方向に転換することも、少しはよいものだ、と私は思うのだが。




Takapan
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