『野火』
大岡昇平
角川文庫
\301+
1955.6.
例によって、価格は私が偶々入手した版に記されたものであり、発行年は最初の年をここに置くことにしている。だから、時代的な物価云々は考慮して戴きたくない。また、改版としてここに出たのは1994年であるらしい。
さて、私は恥ずかしながら『野火』を通して読んだことがなかった。高校の教科書で読んだかどうかも記憶にないが、部分的には、国語の教材にもよくあるわけで、知識としては生徒に教えなければならない一面があった。だが、文学に疎い私は、これを文学として読み通したことが、たぶんなかった。怖くもあった。よく、人肉食(カニバリズム)についてセンセーショナルに言われる。当然そこに光が当たるだろう。だが、もちろんそれだけではないもの、人間の極限の姿など、読んでもいないくせに語ることは、口八丁でできるものだ。
あるときふと、これを読まないわけにはゆかない、と思わされた、探した。新潮文庫があるはずだったが、けっこう高価であったし、書店の店頭でもお目にかかれなかった。ある店で見つけて、しかも安価だったので喜び勇んで購入したら、角川文庫だった。もちろん、翻訳ものではないので、文庫により差があるとは思えない。ただ、角川にもあったという意識が私の中になかったので、不思議な気もした。
さて、扉(の裏とでも言うべきかどうか私は無知である)にはいきなり、「たといわれ死のかげの谷を歩むとも ダビデ」と書かれている。おや、本書の軸に聖書の言葉があるとは、私は意外に感じた。その意外さは、次第に息を呑むような描写に出会うことになる。というのは、しきりに「神」のことや、「キリスト」すら、幾度も登場するのだ。この作品は、聖書をベースにしている一面がある。そのことを、恥ずかしいことに、私は知らなかった。
そこで調べてみると、大岡昇平は、若いときにキリスト教に影響を受け、牧師に将来なろうか、ということまで考えていたという。その後信仰を育んだというふうには見られていないようだが、聖書については決して半端な興味で向き合ったのではなく、かなり「命」を問いながら、深く関わっていたことが、本書からは想像できた。
文学作品である。粗筋をここで紹介するつもりはない。ただ、有名な小説であるため、これがフィリピンのレイテ島で、肺病を抱える田村が野戦病院に入れてもらえず、独り逃げ回る様子を描いている、ということくらいは、お知らせしても差し支えないだろう。
大岡と同じように、この田村も、キリスト教に触れたことがあった。否、それに熱中した、と言ってよいだろう。ただ、その後信仰というものが冷めたようである。しかし、独り生きている中で、神の幻を見るような、神の声を聞くような体験を重ねてゆく。それは、作者の大岡昇平自身の、精神の彷徨いを表しているようなものであったのかもしれない。
とにかく、このキリストと重なる神というものが、物語の背後にずっと棲みついているのは確かである。だからこの小説を、ただ戦争の中での人間のあり方、という程度の見方で片付けてしまうのは、違うと思う。少なくとも、大岡昇平自身は、そのようには描いていない。
ところが、話によると、1959年に映画化されたこの作品では、その神との格闘のようなものは、殆ど触れられていないのだという。「ハイジ」もそうだが、信仰という軸を原作から抜いた作品が気に入られる日本社会は、なんなのだろう、という気がしてくる。2015年にリメイクされたが、反戦的な意図が強いらしいと聞く。
しかし田村の精神的格闘は、「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ」や「野の百合はいかにして、育つかを思え、労せず紡がざるなり」など、聖書の言葉が襲ってくることにより、その都度神を見るようにしてなされ続ける。後者では、野の花の中に神を覚えている。それは自然の中にあるアニミズム的なものであるように見えるかもしれない。キリスト教信仰の外にいる日本人だったら、そう解釈しても仕方がないだろう。大岡昇平の信仰が生きているかどうかは別として、彼は少なくとも、聖書における信仰というものを知っているのだ。だから、自然を通して神と向き合っているということを、信仰者である読者なら、感じるのではないか。
生と死の極限の精神状況を描くその筆は、やがて田村の錯乱のようなものへと着地してゆく。しかし、「われ深き淵より汝を呼べり」という詩編の言葉が内から零れてくるとき、人間的には狂ったようなものであったとしても、神の前には一人の人格であるはずだ、という真実が、そこに現れているような気がしてならない。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド