『日常性の哲学 知覚する私・理解する私』
松永澄夫
講談社学術文庫2768
\1260+
2023.5.
「本書での考察を私は哲学的考察だと考えている。しかし、同じような主題についての価値ある論考が多数あるのに、それらを考察主題とはしない……。議論の大筋を見失わないことを最優先に、自分の考え方をひたすら述べていく遣り方を採る。そしてその際、主題である事柄が自分に経験されるその経験の有りようをたずねて、様々な面をそれぞれの重さに相応しい公平さで扱う。」こう「はしがき」で宣言しているところが目を惹く。
本書は、すでに30年近く前の刊行物『知覚する私・理解する私』(勁草書房)の文庫版である。標題を換え、元の署名を副題のように示した。旧版では「はしがき」に設けていた「本文の哲学史的背景についての注解」を末尾に移した。一部の表現を改めたり、注を充実した。その他、細かな表現にも気を使い、気になるところがいろいろ改められていることが、「文庫版あとがき」に記されている。
著者はその最後のところで言う。文章の一部が入試問題に用いられたことを挙げ、「伝統的哲学が育んできた諸概念とそれらを言い表す用語から自由になって、分かりやすい言葉で叙述するという私の書き方が認められたと思えた」ことで、嬉しいと述べている。
全く、その意図の中で、「日常性」を見つめ、知覚と行為との橋渡しを試みたような書である。伝統的な哲学が構築してきた哲学用語で語り済ませるようなことをせず、自分の見たまま感じたまま、そしてそこから考察したままを、普通の言葉で説明しようと格闘するというスタイルをもっていると言える。
なんとか伝えたい。自分はこのように見たのだが。それは、私たちも願いたいことではある。他人が考えた言葉の用法にのっかって、それを利用すれば何だか偉いことが言えたような気になってしまう、というのが、ありがちなことだからである。
しかし、それは否定されるべきこととばかりは言えない。一定の歴史と理解を重ねた言葉を用いての考察は、定義さえ押さえれば、恰も記号を読み取るように、読みやすいのである。
他方、本書のように日常的な言葉により徹底的に綴ろうともがいた思索は、いわばオリジナルの思索が目の前に現れるわけで、読者としては大変な労力を要するものとなる。つまりは、難解なのである。
章毎の標題だけを並べてみるが、「知覚における対象性成立の論理」「知覚的質と本当に在るもの」「因果的理解と行為」そして「法則の概念と出来事の始まり」と深まってゆく。きっと深い考察で、他には見られない世界が描いてあるのだろうと思う。が、凡庸な私には、描かれている世界に入ってゆくことができなかった。特に前半は、「知覚」を軸にするが、その道の人でなければ、なかなかついてゆけないのではないか、という気もする。あるいは、ただ私だけだ、と言われたら、そうですかと言わざるを得ないけれども。
西洋哲学史の中で格闘してきた「知覚」を巡る問題を、ある意味で崩壊させ、ある意味で解決する糸口。そのような内容になっているのだろう。その結果についての判定は、物事の分かる人に委ねたい。
評にはなっていないが、その意味で、賢い方に挑んで戴きたいという願いと共に、このような形で提示する次第である。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド