本

『認知バイアス大全』

ホンとの本

『認知バイアス大全』
川合伸幸監修
ナツメ社
\1500+
2022.6.

 社の企画に、専門家の監修を仰いだというものだろう。「バイアスがかかる」という言い方を、近年よく聞くようになった。私も、物事の説明に便利だと思い、使うことがある。自分の思い込みをはじめ、他人の影響などにも基づき、適切な判断が阻害されることをいう。本書では、論理的な思考ができなくなること、という点で定義しているように見える。
 認知が歪み、偏る。それは、どこかやむをえない錯覚も含まれるのかもしれないけれども、私たちが知らず識らず、「自分は正しい」という信念の許に、誤っていくからくりのようなものを明らかにすることは、やはり大切な営みであるように思われる。
 それにしても、これほどの分類が必要なのか、と驚くのが正直な感想である。時折コラムなどがあるが、ほぼ見開き2頁にひとつずつ紹介されていく。本書が250頁くらいあるので、100を下らないほどの、認知バイアスの分類がなされているというのだ。
 人間は、誰しも自分が可愛いものだろう。だから自分の判断は間違ってはいないと信じている。生徒にテストの自己採点をさせると、どれだけ甘いか、は実証済みである。だが、学力優秀な生徒は、概ね自己採点でも正確さが光る。要するにそういうものであろうと思う。自分を適切に判断できる能力が、何事をも読解し判断する能力と、比例しているのだ。だから、その子の能力をひとつテストしたいときには、自己採点をさせるのはどうか、と密かに考えている。
 本書に戻ろう。挙げられた認知バイアスの分類をここで並べるつもりはない。ぜひ購入して知って戴きたい。ただ、それをおおまかに章立てして分けているのは、味わいがあるし、紹介してよいのではないか。それらは、「人間関係のバイアス」「組織停滞のバイアス」「消費者と市場のバイアス」「偏見と差別のバイアス」、そして「思想と政治のバイアス」である。もうこのくらいの分け方でよいような気もするのだが、それぞれに細かな分類があり、しかもその一つひとつに、なんとかバイアスだとか、特殊な専門用語が添えられているのだから、もう人間活動のすべての場面で、何らかの認知的な思い込みというものは、当たり前にあるのだ、ということになるのだろう。
 新型コロナウイルスがパンデミックとして現れたとき、知的な人々が、一気に弱さを見せたのを思い出す。キリスト教のリーダーたちが、デマや偽の情報にすっかり騙され、それを拡散していたのだ。そこに人間の能力の有様をひしひしと感じたのが、本書で触れられた認知バイアスの、正に実例であったのだ。ただ、能力として失敗したこと、そのことを私は問題にしていたつもりはない。問題は、そのようにデマを拡散したり、いったいどうしたのと思わせるような言動を始めたその善良なキリスト教のリーダーたちが、その誤りを謝ったような態度を、全くとることがなかった、という点である。こちらのほうが、私は失望した。それが、そもそも自分が誤っていたという自覚がないのかもしれないけれども、もしもそうならまさに認知の上での問題が深刻である。多くは、自分が誤ったことを拡散していたことに気づいていながら、黙っているのである。これは、キリスト教信者として、かなり拙い態度であることは、言うまでもない。私が失望したのは、むしろそこであった。
 最後の章は、「認知バイアスへの対処法」として、解決策が挙げられている。これはいい。やみくもに、人間はこのように間違いやすいですよ、とだけ羅列しておいて、本書がそこに目的を置いているのであったら、ただのリストアップ機能で満足したことになる。だが、このような誤りを防ぐにはどういう心がけが必要であるのか、どういう姿勢で日々いれば、こうした偏見や思い込みを、少しでも回避できるのか、そこに生産的な意味を見出す道を提供してくれたのであれば、本書はより積極的な役割を果たすことができるだろう。
 まずは、自分のバイアスに気づかねばならない。他人の目の中のおが屑にはすぐに気づくのに、自分の目の中の丸太には気づかない、と言ったイエスの言葉は、まさに至言なのであった。それをもっと具体的に策を練るならば、「クリティカル・シンキング」というものを意識しておくのは、確かによいことだろう。但し、それは簡単にできるものではないかもしれない。私は、哲学を何年かだが学的にも研究した中で、そうした見方を訓練されていったのだと理解している。ちょっと哲学書を読んだ、というだけで「クリティカル・シンキング」が自分のものになる、と思うようなら、それこそ正に認知バイアスなのである。感情・思考と距離を置く「マインドフルネス」も紹介されているが、これも同様である。哲学的対話を重ねていろいろ文句も言われ、改善し、また議論をしていく中で互いに唸っていく、というような地道な過程を経ることなく、「マインドフルネスが分かった」と思い込むことこそ、正に認知バイアスなのである。
 確かに、本書の結論としては、どうせ合理的なんて無理だ、と決めつけるような態度で終わることだけはやめよう、という形で釘を刺すものであったが、しかし、それよりも私はやはり、今の点が本質的な問題であるように思う。こうした、解決法にまつわるバイアスについて、警戒するべし、という提言が最後にあったのだったら、どこかアイロニカルでもあるが、認知バイアスについての、核心的な部分を伝えられたことになったのではないか、と、私だったら考えるのである。
 最後に、キリスト者のために少し触れておく。誤るというのは何故起こるか。失敗学もそうだが、否定的な方面の根拠を求めてみるというのは、とても大切なことだと思う。私はそこに、ひとは何故罪を犯すか、罪が離れられないのは何故か、という方面で、考察する意味を見出したいと考えている。アダムのせいだ、としてしまうのは、分かりやすい物語によって理解していくという意味はあるのだが、へたをすると責任を他者に押しつける危険性もそこに含んでいる。事は簡単に解決はしないだろうが、罪のメカニズムのような仮説をもつことは、それを唯一無二の真理だと持ち上げない限り、有効なのではないかと思うのだ。私たちは罪というものを、つまり人間の過ち、あるいは人間の間違うことについて、もう少し正面から向き合う必要があるのではないだろうか。
 とはいえ、他人のバイアスには簡単に気づくのに、自分の中のバイアスには気づかないのが通例である。問題の本質は、そこのところにあるのではないか、とも感じている。つまりは、自己認識の問題でもある、と。




Takapan
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