本

『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』

ホンとの本

『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』
橋迫瑞穂
集英社新書1080B
\860+
2021.8.

 宗教社会学関係の方だというので、その道の専門の方の研究を覗き見できるというのはありがたいことだ。女性特有という言い方でよいのかどうか分からないが、少なくとも私は直接体験出来ない、妊娠・出産という一大事において、精神性がどう影響するのかを考える本。それを哲学的に解明しようというのではなくて、実際にこの社会でどのような現象が起きているか、その背景は何だろうか、というようなところへ斬り込んでいく。特に、その精神性という領域に、宗教や、宗教絡みのものがどう関わるか、それが本書の真骨頂というところであろうか。
 実際それは、「スピリチュアル市場」と呼ばれるほど、金を動かすものとなっている。ひとは自分の欲望のために金を使うし、必要だと思えばずいぶんな金も出すだろう。そのために産業として、その分野の事業が始まり、流行ることがある。いったい、妊娠・出産に関して、どんなビジネスが成立しているのであろうか。
 正直、私はよく知らなかった。確かに、書店に行けば、キリスト教という棚よりは、明らかに、スピリチュアルとか精神世界とか書いてある棚が大きいし、所狭しと本が並んでいる。しかも、そこに立ち止まってどれを買おうかと迷っている人は、キリスト教の棚などとは比べものにならないくらい多い。しかし、妊娠・出産に関してもその方面が実に熱いものがあるということには、ノーマークだった。
 著者は、この流れを、三つの流れで整理する。「子宮系」「胎内記憶」「自然なお産」である。「子宮系」は、子宮に神聖性や神秘性を見いだすことであるという。どうも科学的なというよりは、巧みなふれこみで、これを買えばいいだのと言ったり、よいセミナーがあると誘ったりすることがあるようだ。よい出産ができるように、様々なことを教え、金を動かすのである。一世一代の事業に挑む女性としては、そして経験がない女性としては、とにかく後悔しないようによいことをしたいではないか。そこにつけこむ余地があるということのようだ。その具体的な様子が細かくレポートされていて、私はもう「はぁ……」と一方的に聞くしかなかった。
 次の「胎内記憶」は、子どもの中に、お母さんのお腹の中でのことを覚えているよ、と口にする者が時にいるという、あれである。いや、それに留まらない。神さまに言われて、お母さんを選んで生まれてきたんだよ、などという話も多いという。そのような物語が本になったり映画になったりして、多くの女性の涙を誘うのだそうだ。そういう筋のものがたくさんあること、これも私は知らなかった。これはまた、「胎教」というものに進展していき、そこでまた金が動く。
 それから21世紀になる辺りから、俄然浮かび上がってきたのが「自然なお産」なのだという。薬品や器具、機械に関与しないお産がよいという価値観である。もちろん、昔から人類はそれをしてきたのであるから、できない話ではないし、それで出産ができたらなんとも楽に見えはする。しかしこれら三つに共通するのは、どれも何らかの本やメディアが絡み、それでその考え方が広まっていくことだ。ここでも、自然なお産をした母親はステイタスをもてるかのように思われるかもしれない。だが著者はこの傾向に、なにかしら生命の選別を許容する優性思想のようなものを感じてならない、と案ずる。
 ここから著者は、フェミニズムとの関係を説明づけようとし、「自然」というベースを頼りに、女性の身体に着目していく。ここまで男性の役割は実に消極的にしか論じられない。ともかく女性が主役の出来事だということもあるが、男目線を加えることなく論じてきた。しかしこの辺りから、男がどうというより、男を含めた家族や家庭というあり方の中での妊娠・出産について捉えていこうとすることになる。つまり、社会とは遮断した形での出来事としてそれを掴み、女性がその主役となるのである。そしてそこに、スピリチュアル市場が絡んでいく。そのような家族とは何か。いや、それは家族というよりも、「家庭」ではないのか。しかし、社会とのつながりよりも家庭の内での役割に目が向くばかりであるならば、社会を包む大きなものの支配の意志に、いとも簡単に乗っかっていくことになりはしないか。
 フェミニズムをちらつかせながらも、本書は、フェミニズムからの解決や関わりを、まだ積極的に明らかにしようとはしていないように見える。この分量ではそれは無理だったはずだ。きっと改めて、フェミニズムの仕事が表に出てくるのではないかと期待している。ここではあくまでも、スピリチュアルに関する社会のありようを示し、特にスピリチュアル市場というものが与える影響の大きさをはっきりさせたということが面白い指摘だった。
 私の知らないことばかりだったが、私は先の三つの流れについて、それらを結ぶひとつの糸を思い浮かべていた。それは、「物語」である。この事態の中に、ひとは物語を求めていると思うのだ。科学的な分析ではない。たとえ嘘であっても構わない。そのように思えば幸せではないのか、という態度である。女性の子宮は神秘的にこうなっている、などという物語があると、尊重したくなるではないか。子どもが、神さまにお願いしてママのところに来たんだよ、という物語があると、感動するではないか。女性が自身の力で出産をするたくましさをもっていて、生命の力に満ちているという物語を呈すれば、自信に満ちるではないか。物語はしばしば空想である。フィクションである。しかし、フィクションだからこそ、ひとの人生観や価値観に、真実を与えるというのも本当である。宗教性があるといっても、教義や組織的束縛があるわけではない。いわば自由に、一人ひとりが快い物語をつくり、あるいは受け取り、それを信頼して、その気になっていればよいのである。但し、そこに金が絡むというのが、ひとつ気になるところでもあるから、このとりまく市場というものが、どこかいやらしく思えるのは、間違いないであろう。




Takapan
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