本

『妊娠カレンダー』

ホンとの本

『妊娠カレンダー』
小川洋子
文春文庫
\400+
1994.2.

 芥川賞受賞作を、30年経ってから読むというのはどういう神経なのだろう。文学に興味がないというのはこういうことか。別用で、小川洋子さんの書いたものに触れたために、この機会を活かそうと、手を伸ばしてみることにした。
 妙な心理描写や理屈をこねることなく、さらりと情景をひたすら描くといったスタイル。その文学論を読んだ故に、作品もまた読みやすく感じる。ひたすらそこにあるものを描写していくというそれだけで、流れるような時が過ぎ、やさしい風が吹いてくる。
 文学作品については、その細かなストーリーのご紹介は遠慮することにしている。
 本書は短編がいくつか含まれて折り、最初にその受賞作「妊娠カレンダー」がある。姉の妊娠生活を妹の目から描く。姉はごく一般的な妊婦ではない。ある弱さをもっており、そのことからくるのであろう、日常生活における軋轢のようなものが妹との間に存在している。特別な感情をぶつけるようなことは妹はしないが、ささやかな抵抗という深層心理のようなものがあるようにも見える。
 小川氏は、物語に教訓をもたせたり、言いたいことをぶつけたりするようなことはしないのだという。小説の要点が短く要旨のごとくまとめられるのであるならば、なにも小説という形で長く書く必要がないはずだ、というのである。だから百人が百様に読んでもらえるようにと願っているのだそうだ。
 だから作者が意識はしていないのかもしれないが、探せば象徴的なものや事件がきっと出てきている。松村栄子さんが解説を入れているが、この人はこの人なりにその何かを見いだしている。私も見ているような気がするのだが、如何せん、それを言語化できない。
 表題作と同時期の作品がこの本には収められている。受賞後最初の作品として「ドミトリイ」、翌年英訳版が後に掲載されることにもなる「夕暮れの給食室と雨のプール」である。
 このうち「ドミトリイ」は「妊娠カレンダー」と同じくらいの長さのある、いくらか不思議な展開があり事件性を感じさせるものだが、その中でもだえるように導く、障害のある先生が切ない。この二作からだけで言うのもおかしいが、それでもやはり、物語の奥底に死というものを隠し持っているということは、作者の底流にある大切な何かであるように思えてくる。このことは物語についての思いの中にも出て来ていた。
 ところでこの「ドミトリイ」だが、学生寮という表記にルビが振られており、まさに学生寮を舞台に描写が続くのだが、初出の差異にそうルビが振ってあるだけで、その後はルビなしでひたすら「学生寮」が続く。もしかすると途中どこかでルビありの表記が隠し球のように置かれていたかもしれないが、それを探す手間を私はいま惜しんでいる。確かに英語でそのような宿泊施設、寮を指す語であるようだが、多くの人にとり「ドミトリイ」と聞けば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を思い出すのではないだろうか。父フョードルの長男で、前妻の息子。退役軍人で生活は堕落している。かっときたら止められないタイプで、父親と女性を巡り争い、フョードルが殺されたときの重要参考人であった。というのは、常日頃、父殺しを公言していたようなところがあり、事件当日も疑われて然るべき行動をとっていたのだ。そのため裁判で有罪となり、流刑となる。
 だが、小川洋子さんのことだから、この物語をメタファーとして何かを考えさせるというような手法は採らないはずだ。事実、この作品に父殺しの問題が出てくるとは思えない。だが、どうして、なんのために物語の題が「ドミトリイ」なのだろう。不思議だ。きっとどこがで説明されたことがあるのだろうが、分からない。分からなくていいとも思う。学生が消えるという前提のような情況にも何かを感じるべきだろうと思うし、身体感覚への鋭敏さも怖さを増すのに役立っている。
 最後の「夕暮れの給食室と雨のプール」には、宗教団体めいたキャラクターが登場するが、およそ通常は重なり得ないような二つのイメージがつながることの意味づけが、情景を飾っていく。
 それにしても、小説に出てくる主人公たちは、人との関わりについてなんとポジティブなのだろう。いや、流されているのだろうか。普通なら関わりをもたないはずのような人に対して、簡単に会話を許し、それどころかどんどん惹かれて関係を深めていく。内実はやはりドライなところがあるような気もするが、おそらく30年の時を経て、人間関係というものが、さらに遠ざかるようなものになっていったために、それが当たり前に思うようになったのかもしれない。30年前は、まだどこか人情めいた人とのつながりができやすかったのだろうか。タイムマシンで確かめたいような気もする。




Takapan
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