『人間の土地』
サン=テグジュペリ/堀口大學訳
新潮文庫
\552+
1955.4.
堀口大學の訳は、戦後間もない頃の言葉である。が、決して古びてはいないと私は思う。むしろ品の良さや言葉の吟味や美しさに於いて、時折うなるような輝きを見せていた。
もちろん一番有名な作品は、『星の王子さま』であろう。宇宙を飛ぶ物語は、ただのファンタジーではなく、作者自らが飛行機乗りであったことも、広く知られている。そして、最期は飛行機に乗って飛び立ったまま、消息不明となった、ということも。
本作は、『星の王子さま』に先立ち書かれたもので、よく読まれたらしい。パイロットが主であるため、作品の執筆は時折ながらも、若い頃から幾つかの作品を執筆している。飛行機に憧れ、軍用機の操縦免許を取得していたが、当時郵便飛行を担い、世界を飛んでいた。そういう時代だったのだ。
初めてエンジン付き飛行機に成功した、あのライト兄弟のフライヤー1号が飛んだのは、1903年のこと。サン=テグジュペリが民間飛行免許を取得したのが1921年であるから、技術の進歩は目覚ましい。その間、第一次世界大戦があり、飛行機が実際に戦闘地を飛んでいた。尤も、第二次世界大戦のときのように、攻撃の機能は基本的に持ち合わせておらず、偵察のためであった、と聞いたことがある。が、必ずしもそうではなかったことを、この後に記すことにする。ともかく、短い間にこれほどに実用化されたというのは驚きである。人間が、ひとたび目的を正当化したら、どんなことでも実現させようとする激しい欲望と能力を有っていることを実感する。
しかしながら、やはりまだ未熟な技術ではなかっただろうか。本書はサン=テグジュペリがその飛行経験にまつわり、共に働いた仲間との友情や、様々な冒険的な経験について語っているが、あちこちに不時着したり、友を喪ったりしている。
同僚のギヨメについては、アンデス山脈に不時着したために、その救出にもあたっている。自身、幾度も事故を経験し、重症を負ったこともある。まことに命懸けの職であったのだろう。だが、それでもとにかく操縦が好きだった。そして、それにも増して、文章が巧かった。
本文に先立つ前書きのようなところで、まず「ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というのは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものなのだ」というところから始まる。ああ、これで本書のテーマというものが、見事に表されている。そしてこの冒頭は、この身の上話のような長いエッセイが、『人間の土地』という題名である謎を、少しは解くヒントになっていると言えるだろう。
章に掲げられたタイトルは、「定期航空」「僚友」「飛行機」「飛行機と地球」「オアシス」「砂漠で」「砂漠のまん中で」そして「人間」と並ぶ。特に規則があるわけではなく、気ままに付けられたタイトルのようだが、かなり危機的な情況の話もあれば、これはただのファンタジーではないかと思ってしまいそうな話もあり、文学的に楽しむ気持ちのある読者は、大いに愉しめることだろうと思う。
その終わりの方で、サン=テグジュペリはこう綴る。「たとえ、どんなにれそが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。」これが、とても目を惹くように書かれていた。
私はそんな冒険もしないし、どんな障害物と戦うのかどうか、まことに頼りない。どんな役割であるのか、分かってもいないのだろうし、だから幸福や平和、そして穏やかな死についても、何も覚ってはいないのかもしれない。サン=テグジュペリが見つめていたものと、危険を背負ってのその短い人生が、どんなふうに時間と意味とに於いて凝縮していたか、私たちは、その遺した文章から、後から感じ取ることができるに過ぎないのである。
本書はその後、他の訳者により『人間の大地』という題でも訳され、ちょうどいま2025年夏、Eテレの「100分de名著」で取り上げられている。その訳者の一人で、本書に惚れ込んだ人が講師を担当している。また、その人はこの本の訳者である堀口大學を師と仰いでいる。
いまなお、このように生き生きと昔の訳が読まれるのは幸いである。少しも古びることない言葉は、まことに美しい。
なお、この本には、「空のいけにえ」というシンボリックなタイトルの、短い文章が付けられている。空を飛ぶことに憧れ、そのような物語をこの世界に幾つも提供してくれた、映画監督・宮崎駿氏の文章である。飛行機をわずかな時間で、「大量殺戮兵器の主役にしてしまった」と告げるその口調は、どんな心情によるのだろう。その叙述によると、第一次世界大戦当時から、飛行機には機関銃が積まれていたという。交戦国において、17万7千機もの軍用機が生産されていた、とも記されている。人の死をもたらす飛行機の姿は、決して宮崎氏の求めるものではなかったことだろう。
この文章が書かれたのは1998年であることが記録されている。監督はすでに「紅の豚」を制作している。その後、2013年の「風立ちぬ」で作品発表を終わるのかとも思われたが、その10年後に、「君たちどう生きるか」をつくった。サン=テグジュペリのことばかり考えていたのではないと思うが、なんだかずっと、その声を聞きながら歩んでいたような気さえするのである。

た
か
ぱ
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ワ
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