本

『人間について』

ホンとの本

『人間について』
ボーヴォワール
青柳瑞穂訳
新潮文庫
\280
1980.3.(改版)

 ボーヴォワールとくれば、やはり『第二の性』と言ってよいだろう。私は大学のときに読んだ。それにはある女性にまつわるエピソードがあるが、それをここで綴るつもりはない。その頃の私は、哲学を学んではいたが世間知らずでもあり、女性という立場やその問題について、真剣に考えたことがなかった。それで、畳みかけるようなその本の勢いに、首根っこを押さえられたような気がして、以後女性に対する考え方が一変したと考えている。まだ教会に行く前ではあったが、その後まもなく聖書と出会ったために、いろいろな意味で私の精神的歩みに関わった本だったと言える。
 それから何十年、古書売場で目に留まったこのボーヴォワールの『人間について』、比較的薄い文庫であったから、これは読みやすいかもしれない、と懐かしい思いで手に取ったのはよかったが、読み始めて後悔した。これはなかなか厳しいではないか。理詰めで語ろうとしていた『第二の性』とは異なり、時に象徴的に、また自由闊達に思索が浮遊し、どこかとらえどころがないではないか。いわばひとつの詩を見ているような錯覚に陥るのであり、論理なのかどうなのか、分からなくなることもあった。
 幸いだったのは、その最初の章の「カンディッドの庭」で道に迷わずに済んだことだった。私は『カンディード』というタイトルの本を手にしたのだが、18世紀ヴォルテールの著作である。リスボン大地震にまつわる数少ない小説として、探して手に入れたものである。それは、ライプニッツのオプティミスムを徹底的に揶揄した喜劇的物語である。その結末で、カンディードは、自分の庭仕事をこそするのですと答えて、大変な騒ぎに巻き込まれてここまでとんでもない事件ばかり経てきた後に、落ち着いた生活を始めるのである。
 ボーヴォワールは、このシーンを大切にイメージし、最初の章だけではなく、しばらくこの見方を引きずりながら、随想を展開する。イカ「瞬間」「無限」「神」「人間」「位置」と、現代哲学風にテーマを漂いながら、第二部においては「他人」「献身」「交流」「行動」そして「結論」へと流れていくことになる。
 さて、ひとつのモチーフだけを取り上げてみよう。自分自身を追い越していく。これがひとつの思惟のカギである。自分に閉じこもることはしないし、そもそも自分でない他に向けて心はいつも向いているはず。自分の中に潜り沈んでいくようでも、そこから超えていくという営みがきっとあるだろう。しかしそれは、端的に神を求め神と結びつくというような性質のものではない。あくまで人間の世界の中で、それは過去の人類の歴史全てを宿しつつ、将来の人類の歴史全てを含み有つ形で、いまという時を生きることであるに違いない。またそれは、死で終わるものではないもの、どこまでも自分を超える形で、一種の永遠の中にあるものであるようにも思われる。
 あなたは、あなたを超えていくことができる。いや、すでに超えている。あなたは、もう自由なのである。そんなエールを、この本から聞くことはできるのだろうか。ボーヴォワールの書き方は必ずしも論理的ではなく、かといってただの詩的なものであるとか喩えで終わっているとかいうことはなく、様々なイメージや思想家の概念を持ちだしてきて、自分の中に芽生えた思惟の世界をなんとか伝えようと綴っていく。何かしら感性の領域でそれを捉えるならば、それもまたよいことなのだろう。楽しんで、心に何かが触れていくならば。そして、今日も生きていく勇気を懐くことができたのであれば。




Takapan
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