本

『人間の条件』

ホンとの本

『人間の条件』
ハンナ・アーレント
志水速雄訳
ちくま学芸文庫
\1500+
1994.6.

 1973年に中央公論社より刊行されたものが、ちくま学芸文庫に収められた。そこから四半世紀ほど経って、ようやく私が手にした。ハンナ・アーレントというと、どうしてもアイヒマン裁判からの流れが目立ち、とくに同じユダヤ人関係よりブーイングを浴びたものの、その眼差しの真実がようやく認められていったというところに目がいく。本書はそのような意味でのセンセーショナルな面はないかもしれないが、私たちの関心の土台である「人間」というものについて、大部の形で考察がなされている。これもまたとても興味深いものである。
 もちろん、生物学的にそれを探るものではないが、他方、抽象的にその価値を定義するかのようなものでもない。時は、人類が宇宙に飛び出したことが画期的であった頃だ。プロローグあたりで、さかんにこのことに触れられているため、もしかすると宇宙と人間という次元で話が進むのかと一瞬錯覚したほどである。だがそれは、非常に現実的な人間の生きているありさま、語としていえば「活動」に焦点を絞っていると言えるだろう。
 そのとき、「公的領域」と「私的領域」という区別に最初に目を奪われた。古代ギリシアにおける人間の活動は、現代と対比するのに都合がよいと言える。あまりにも環境が違い、文化が違うのだ。もちろんヘレニズム思想は西洋の伝統のひとつである。しかし、パラダイムが余りに違う。それでいて、文献が比較的豊富に残っているため、考察しやすい側面がある。また、哲学の伝統の根本である。その文化を受け継いだローマ文化も重ねて、比較するに相応しい題材となるのだろう。そこにおいて、公的政治に参加する生き方こそが人間本来のものであり、家庭生活に引きこもるというのは人間として悲しい生き方でしかない、という指摘に、どきりとさせられる。
 そうした社会というものの中における人間は、「働く」ものである。そこでアーレントは、「労働」と「仕事」とを峻別する。これは、当時大いに議論され、また政治的にも重要なアイテムであった、マルクス主義を意識したものであったはずである。マルクス主義をアーレントは否定するものではない。だが正当に批判することはしなければならない。マルクス主義の主要概念は「労働」である。しかしアーレントは、それよりも別に立てられる「仕事」の概念に大きな意味を見出す。やがてそれは「工作人」というような言葉で深められていく思想であるが、このアーレントの議論を追うというよりも、いまの私たちの置かれた中での景色を少し捉えてみよう。
 ほぼ2020年からのパンデミックは、人類の意識を大きく変えた。命の大切さと共に、経済が成り立ち行かない情況に、多くの人々が焦った。当然である。だがそのとき、文化的な職業は軽視された。こんなときに文化など何の役に立つのだ、というのだった。文化が途絶えても差し支えない、それよりもワクチンだ、と目の色を変えて人々がそれぞれの「正義」を主張した。
 音楽にしろ美術にしろ、舞台芸術にしろ、そうだった。だが、そうなのだろうか。それでよいのだろうか。他方、生きるために必要な他の経済活動、もちろんそれは大事なのだが、それはここでいう「労働」であり、よくよく見れば、人間が「奴隷」のような具合で活動しているような中で成り立つ世界だとは言えないのだろうか。人間とはそのようなものでしかないのだろうか。別の「仕事」を忘れている場合ではないと思われるのだ。
 人間の世界観を大きく変革した近代哲学に対するアーレントの検討も味わうべきである。デカルトとカントの辺りである。こうした思想に通じていることは、アーレントのようにきちんと文明や文化を論じる書に対する最低条件となるだろう。西洋では、こうした読み方ができる人が、日本より多いのだろうか。それは例えば、日本でなら、信長や秀吉の話をするような具合に、たいていの人にとりそれなりの関心と一定の知識のもとに、話ができるというものなのだろうか。
 本書でもうひとつ鍵になる言葉は「アルキメデスの点」という概念である。知識の基礎となる点であるが、これは十分基礎づけられて具えられたというよりも、無条件的に、あるいはその根拠を意識さえされずに、いつの間にか置かれたものなのではないだろうか。世界を動かしてみせると豪語したアルキメデスの点は、本来空想的なものであった。現実的な意義をもたなかった。だが、人間は自然を相手に、このようなアルキメデスの点を置いてしまい、自然を自由に操り、処理し、処分さえして、浪費し枯渇させることにもなんら危惧を覚えなかったのだ。人間を自然の外に置いて、自然が壊れても自分は関係がない、とでも考えているかのように、地球を壊滅させることをし続けているのではないか。
 もしかするとこの書の書かれた1958年の頃のアーレントの時代、その心配はあっても、現実的にそれが迫っている感覚はなかったかもしれない。だがその眼差しの先にあるものが、悪い事態として、その後半世紀を経ると、持続可能な社会という言葉が否応なく襲ってくるようになってしまっている。人口減少や資源消失、自然環境の破壊や異常気象、そして疫病。悲観的になりそうな情況の中で、アーレントの警告に私たちは改めて注目する価値があるものだと感じる。
 かつての不死への信仰が崩れたとき、この世界の居場所に私たちはすべてを見出していかねばならなくなった。キリスト教自体、これを支えられなくなっているという現代の中で、逆にそのキリスト教の立場が、ここからの救いの道を提言する可能性というものは、ありえないだろうか。もうそんな力はないのだろうか。真正面から「人間」というものを相手にする思索は、必然的に、自分はどうか、という問いも投げ返されてくることだろう。そこから、私たちという共感が導かれるのかどうか、そして人間という種別の生物に限らず、この世界すべてにつながるような眼差しが与えられ、そのために「仕事」ができるような道が見出されないのだろうか。そんな問いかけを、私は受けたし、また返していきたいものだと思わされた。




Takapan
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