本

『肉体の悪魔』

ホンとの本

『肉体の悪魔』
ラディゲ
新庄嘉章訳
\180
1954.12.

 文学に疎いというのはつまらないもので、特にフランス文学だと接点が少なく、ジイドやコレットなど触れたことはあるものの、ラディゲのことは知らなかった。
 タイトルはどこかで聞いたぞ、という程度で、最安値の文庫本を手にしたところ、たちまち惹きこまれた。私好みの文体である。
 私もある部分で思い当たるふしがある。ティーンエイジャーでの恋愛において、多かれ少なかれ、この物語の主人公のような心理を辿ることは、きっとあるのだ。そして、情況を描写するというよりは、「僕」の内面を冷静に綴っていくスタイルで、これがまたエスプリが利いているというか、ちょっと斜に構えたような見方、いや当人はそんなふうには考えていない、若気の視点がまさにそのようなものであるというままであるに違いないのだが、大人になると少しばかり甘酸っぱく、だがあのころには確かにそのような足跡を遺していたはずの、そんな角度から見た自己心理、世界で自分が中心でいるときの断定的な発言を隠し持った感情、そんなものがふんだんに描かれていた。こういうのを書いてみたい、とも思うわけだ。私が多分にそのような人間だからだ。
 例によって、物語の筋道を全部ここでばらしてはいけない。「僕」は成績優秀であるのだが、才能を持て余して退屈な一面もあった。女性との関わりは積極的ではなかったが、マルトという年上の女性を知り、接近していく。心理的にも実効的にも支配的になっていくが、マルトは軍人と結婚するという大人社会の成り行きに見舞われる。少年であった「僕」は、情熱というよりは何か自己の確立のためにであるかのようにも見えるが、とにかく愛しているという思いから、マルトとの関係を続ける。軍人の夫は第一次世界大戦のため出征していたのだ。周囲からも関係がばれて冷たい目にさらされるが、二人の関係は出来上がっていく。夫が一時帰省した後、マルトの妊娠が発覚する。さて、これはどちらの子なのだろうか。
 このとき「僕」は初めてのように、この子を愛する思いに支配される。不思議なものだが、さしあたり自分の子だと思っていたからだ。だが、それを疑わせるような事態になっていくと、物語はやがて終わりを迎える。さすがにこれは明かさない。
 性愛的な描写はここにはない。時代的な背景もあるだろう。それでも当時物議を醸したらしい。繰り返すが、この心理描写に私は惹かれた。そしてアフォリズムの一言一言にしてもよいような、輝く言い回しや格言めいたもの、またエスプリの塊のような言葉がちりばめられている。どこか一つを選んだ、それをテーマにした小説だって、いくらでも生まれてきそうなくらい、アイディアの宝庫なのだ。
 今になってこんな作品に触れるとは、人生もっといろいろ体験するんだったなぁなどと思いつつ、「肉体の悪魔」を閉じる。この文庫には、短い作品が2つさらに掲載されているが、その特に2つめのほうが私は気に入った。これも作風は「肉体の悪魔」に似たものがある。しかし作者自身が気に入らなかったということを、詩人のコクトーが最初に書いている。どういう関係か、と思ったら、後で大変なことが分かった。
 コクトーはこのラディゲの死に激しくショックを受けており、人生を大きく変えてしまったのだという。若い作家を見込んで見守っていたら、病気で死んでしまったのだ。そのときラディゲはなんと二十歳と半年。
 すると、「肉体の悪魔」はいつ書いたのか。ほぼ十七歳あたりだという。まさか。私は我が目を疑った。そしてこれは、類似の体験を自身がしているのだろう、という話である。確かにそうだと思う。少年期にあったことを執拗に言葉を連ねて描くと、このようになるだろうということは、私にも思い当たるふしがあるからだ。しかしだとしても、ラディゲは天才である。もし長生きしていたら、どれほどの作品を生みだしていたか、計り知れない。創世の天才も数多いが、私が今までそのことを知らなかったということが悔しい。これがデビュー作だったのだという。いやぁ、惹きこむ力をもつ、素晴らしいものに出会えた。もしかするとそれは、訳者の腕であったのかもしれないけれども。




Takapan
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