本

『日本の理想 楽しい議論の出来る国に』

ホンとの本

『日本の理想』
楽しい議論の出来る国に
沓石卓太
郁朋社
\1,200
2003.7

 昔、一度だけ、読みかけの本を壁に向かって思い切り投げたことがある。それは共産主義の本だった。何も、共産主義だから投げたのではない。その議論が奇妙だったからである。何を根拠にか分からないが、敵対する者を無条件で極悪と決めつけ、自分の考えのあらゆる面が正義そのものであると主張してやまない。自分が正義に決まっており、相手が悪に決まっている、と、とにかく自分に有利になるような例だけを引いて、蕩々と相手を皮肉ったりしている議論だった。嫌気がさした。
 年を経て、また同様の本にお目にかかろうとは思ってもみなかった。
 今回は、立場としては前回の逆である。この著者は、共産主義と仏教を、とにかく敵視している。読めば読むほどその根拠がよく分からないのだが、共産主義と仏教は、最初から悪そのものなのである。何がなんでも粉砕しなければならない相手であり、その一部たりとも存在を許されないような性質のものらしい。それらが日本をダメにする元凶だと断定し、日本本来の神を中心とする民主主義がすべてを救うと叫んでいる。  哲学も無意味だという。だが私は断言する。この著者は、哲学を何一つ学んでいないし、おそらくご自身も「哲学する」体験がない。学んでいないという証拠を挙げよう。
 ――哲学という概念の始まりの言葉である「フィロソフィア」というギリシャ語は、「知識」という言葉と、「愛」という言葉からつくられた言葉であるという。……愛と真に対するギリシャ人の思いが、知識を学問という形に昇華させることが出来たのである。……ギリシャ人は考えた。最も人間的なもの、それは「愛と知性」である。(p102)
 フィロソフィアは哲学という概念の始まりの言葉などではない。西周が苦労して作った訳語「哲学」の原語そのものである。そしてこの語の意味するところは、知識と愛ではない。知を愛する、という意味である。知識ではないし、愛するは動詞である。知識は、ソクラテスが非難したソフィストたちの掲げるものであり、ソクラテスは知を強調した。この本の著者は、自分勝手に、知を愛するという営みを、愛と知識だと都合のいいようにねじ伏せている。強引というより、たんなる無知である。第一、ギリシャ人がそれほどにまで「愛」を重んじたという指摘を、私は寡聞にして聞いたことがない。自分本位な著者の思いこみである。
 ばかばかしいので、このような無知について逐一あげつらうことはしたくない。カントルの集合論をかなり長いスペースを使って論じているが、無限の概念についても、おそらく数学の研究をしたことがないであろうような記述ぶりの中で無限について叙述し、カントルは間違っていると叫んでいる。つまり、カントルの犯した一つのミスを取り上げて、集合論は間違いだと結論づけ、自分の着眼が正しいと宣言している。この自説をひっさげて、唐突に、共産主義は観念論だから間違いだ、ともってくる著者の筆は、ほとんど誰もついてこれない無意味さではないか。
 この本は、もともとインターネット上で「私の理想」と題した論文として自由にダウンロードさせていたものを、出版するというので本の発売と共にダウンロードを止めた内容である。それだけ長く提供していた原稿なのに、カントルを論駁(にはなっていないが)する肝腎の場面で、0.1などのことを「少数」という文字で残していること自体、信用がならない。もともと、この辺りの議論は論理を成していないのであるが。
 仏教についての偏見もものすごい。
 ――仏教的価値観を一口でいい表せば、「人間、生きている間、幸せになることは不可能である。そこで死んでからの幸せを願う」というものである。いったい、こんな考え方を基にして、議論が成り立つのであろうか。こんな無茶な考えを、真理としてありがたがっていて、国民は幸せになれるものであろうか。(p135)
 仏教批判にもなっていない。著者が仏教を嫌いなのは分かるが、それは感情であって、論理でも議論でもない。この本のサブタイトルとは正反対のことを自らやっている。なんら理由になっていない。仏教は議論するための知恵でもなければ、国家建設のイデオロギーでもないのではないか。だいたい、死後の幸せを願うのが仏教だと決めつける根拠は何か。少なくともそれは、釈迦とは対極にある思想である。仏教は生きる知恵であり、苦を乗り越える悟りである。死後の世界について釈迦が教えたという記録は、おそらくないはずである(すべてのたとえまでは知らないけれど)。たぶん、日本仏教のそれぞれの宗派も、この暴言には呆気にとられるばかりであろう。
 最初、この本を読み始めたときには、少しはいいことが書いてあるように感じられたが、とんでもない代物だった。しばしば、国粋主義の人の意見には、このような自己正義が息巻いている。それは他を徹底的に排除する性質があるゆえに、恐ろしいものだ。議論を許さない。この本にも、とにかく共産主義と仏教は問答無用、と否定するだけであるから、怖さを感じてならない。
 怖いもう一つの理由は、この著者の正体がまるで分からないことである。本のどこにも、どういう立場であるとか、どういう肩書きであるとか、一言も記述がない。年齢も経歴も、何一つ、である。念のために、インターネットで検索したら、この人のものと思われるサイトがあった。ダウンロードの件もそこで知ったのであるが、驚くことに、ここにもまた、著者のプロフィールなどは何一つないのである。なにも、肩書きが人間にとって大事たとは思わないが、どういう立場のどういうスタンスの人間であるかということは、思想めいたものを語る人間の、最低のマナーである。しかし、全くない。まるで、正体をとことん隠しておかなければまずい事情にあるか、または、自分が神であると錯覚しているかのようである。
 もし、統一協会のような組織の一員が思想で誰かを釣っていこうと考えるなら、こうした手段を使うかもしれない、とは思う。
 本は、賛同するものばかりとは限らない。だが、警戒しなければならないものも多く混じっている。玉石混淆どころではなく、これは毒麦の譬になぞらえてよいケースなのではないか。




Takapan
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