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『日本の神学』

ホンとの本

『日本の神学』
古屋安雄・大木英夫
ヨルダン社
\3107+
1989.4.

 古屋氏は2018年に、大木氏は2022年に、亡くなった。本書に私が出会ったのは2024年。価値ある本を知るとき、著者とのコンタクトはもうできなかった。どちらも、日本の救いのために多くの考察をし、真摯に日本への福音伝道について重荷を負い続けた。古屋氏は、プロテスタントの問題をも省み、キリスト教と日本人との関係に対して、提言を続けた。大木氏とくれば、やはり終末論への考察が秀でていると言うべきだろうか。絶えず終末を睨む形で、福音が伝わるのは阻むものに目を見張っていたと思う。
 ここに「日本の神学」と題して、二人して問い続けた問題が本となった。大木先生の牧会する教会が発行する月刊誌に、勧められて古屋氏が三年半にわたって連載を続けた考察が、本書の前半を占めているという。なんとレベルの高い教会誌なのだろう。少しも手を抜いていない。「日本の神学」という問題提起は、大木氏に基づくものらしい。二人の考えは、必ずしも全面的に合致しているわけではないようだが、しかし方向性は同じなのだろう。
 全体的に繰り返されているのは、タイトルの「日本の神学」という呼び方である。「日本的神学」とはしなかった。「日本的キリスト教」という言い方に、気まずいものが含まれるためだ。雑誌『福音と世界』でずっと連載されているのだが、「日本的キリスト教」は、日本人が、これぞ真のキリスト教なるぞ、と強く主張したもので、太平洋戦争に至るまでの明治期からの福音理解に基づくものをしばしば指す言葉なのである。いかにも聖書を解しているようには見える。だが、そこに天皇制との調和を盛り込もうとして、あれこれと理屈を加えてゆく。当時は、真剣だったのだろう。また、場合によっては、そのように言わなければ教会の活動ができなかったという情況があった、ということも考えられる。だが、いまから見返してみれば、あまりにも滑稽にすら見えるその理論が、どうして当時真理のように見えたのだろうか。その反省は、いまなお必要である。いま私たちが常識としているキリスト教理解が、百年後に見ればとんでもないものだと見られている可能性もあるからだ。
 ところで、「日本の神学」の「の」が曲者であろう。西欧語ならば属格と呼ぶ形であるが、本書はその点、ぬかりない。「まえがき」からきちんと宣言している。「日本を対象とする神学」のことであるのだ、と。「日本」を、トータルかつラディカルに対象化する、あたかも「日本」にかけられたアルキメデスの視点のような位置に、著者たちは立つのだ、と言っている。頼もしい宣言である。
 古屋氏が、「歴史的考察」を担っている。あくまでも「神学」としてこれを捉えていく立場を明確にすると、歴史の中の「鎖国」にしばらく立ってみる。宣教師からキリシタンの信仰を丁寧に辿る。それから、明治の開国に伴う事態を説く。ペリーやハリスの時代から見るが、キリスト教に関してはペリーが慎重であったのに対して、ハリスは非常に積極的であったことが指摘される。ふだんあまり強調されないことのように思えた。
 その後、和魂洋才というあり方を、かつての和魂漢才と比較するなど、広い目をもちつつ扱い、時代を決定づけてゆく国家神道や明治憲法について考察する。とくに、「教育勅語」が与えた力が非常に大きかったことが強調されている点は、慧眼だと思う。教育が国を変える。そこを縛ったことが、この後日本を大きく変えていくことになるのだ。
 古屋氏とくれば、「20年周期節」が有名である。キリスト教に親和的な時代が20年あると、次の20年は反発的になる、そのようなことをなぜか歴史は繰り返しながら今日まで来ている、というのである。戦後に至っても、それはそうなのだということを強く述べる。果たして20年ということでよいのかどうか知れないが、何かしら交互に波があるということは、よく分かる。それには様々な原因があるのだろうが、どうやら時代の空気は、偏って進むことをできるだけ避けようとするらしい。しかし、それが日本という精神風土である故であるかもしれない点までは、十分考えられてはいないように見えた。
 内村鑑三の「二つのJ」のもつ意味、非戦論を説きながらも、戦勝に無邪気に喜ぶ姿などが冷静に綴られる。どうやら「ナショナリズム」というものが、人間の腹の中にあるようだ。その意味では、矢内原忠雄という人は、ずいぶんと腹の据わった人であったらしい。戦時中に国家主義に呑まれてしまった大多数のキリスト教界と有名人に比べて、動かない立場というものが尊く見える。
 その他、唯一神信仰についてもいくつかの層があることや、せめて10%の信仰者をつくりたいという願いなど、筆者独自の考えが最後に並べられる。現実社会を変えるために、1%では少なすぎる、というのである。なんとか10%あれば、現実を動かす力となる可能性が大きくなってくる、というのだ。あまりにも実際的な見解だが、この願いは、果たして夢物語ではなくなるのだろうか。
 続いて「方法論敵考察」として、大木氏が、もう少し硬い感じで最後の百頁を飾る。「日本の神学」という点に徹する姿勢がここにある。本居宣長の問題意識と、それを受け継いだ形になった西田哲学が、批判される。触媒理論、バルトとパネンベルクなど、神学を繰り出しては、日本における精神的な問題が何であるかを告げようとする。そして、教会が「主体性」をもつものでなければならない、というところへ引っ張って行こうとしている。
 本書は、昭和の終わりに重なった。本書の中でも天皇制が論じられているが、教会誌においてそれを載せたときに、昭和天皇が没したという絶妙なタイミングであったという。まだ、マルクシズムにも希望があったのかもしれない。それを臭わせる叙述が、ないわけではない。その後、本書の立場から、それぞれの晩年に見えていた日本というものがどうであったか、他の機会に述べているのかもしれないが、本書はとりあえず本書の時代で幕を閉じている。私が信仰を与えられたのは、この時期に近い。その後、私は筆者たちの祈りを受け止めてきただろうか。いま、教会という舟は、どこへ流れていこうとしているのだろうか。あるいは、流されているだけなのだろうか。昔に比べて規模の小さい、力のない教会世界であるのかもしれない。しかし、「日本的キリスト教」が力強く叫んでいたのは、結局国家神道との同居であったし、戦争賛美の一端を担っていただけであった。か細い声であってよいのかもしれない。
 それでも私は危惧する。なあなあで利用されるのも問題だが、勢いよく反対しつつあっても、相手の掌中で踊っているだけ、ということも、あるかもしれない。幾度も私は言うが、8月15日を終戦の日だという前提で天皇制を批判したとしても、それは相手の思う壺でしかない。キリスト教界の知恵は、まだまだ聖書の与える知恵からは程遠い、というのが私の見方である。陰で精一杯叫んではいるのだが、何々神学校を出てにこにこと牧師や神学者仲間で社交を愉しんでいる人々には、何の興味もないらしい。教会で、愚にもつかない聖書話を礼拝説教だと偽って毎週騙っていることを礼拝だと思い込んでいるようなケースも実際見られるのであるから、本書の著者たちの声は、なかなか届きそうにないようである。今後、それは悔い改められるのかどうか、そこにかかっているとは思うのであるが。




Takapan
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