本

『日本語と時間』

ホンとの本

『日本語と時間』
藤井貞和
岩波新書1284
\840
2010.12.

 副題が「〈時の文法〉をたどる」とある。
 テーマは、助動詞である。筆者は、助動辞と呼びたいというこだわりがある。このあたり、国語研究家の奥深い思慮があるので、何故かという事情については、本著をご覧戴きたい。
 高校のとき、古典文法には困らされた。とくに、助動詞である。そこに、解釈のすべてがあると言ってもよいくらいだった。助動詞の理解に、どういう感情であるのか、どういう事件発生であるのか、すべて隠されているようなものだった。未だに、「る・らる・す・さす・しむ・ず・む・……」と接続の仲間をそらんじることができるほどに、覚えさせられたものである。
 だが、私は、納得できないところがあった。公式的に、この接続の場合はこの意味、などと覚えてみても、本当にそうかなと思われることが、ないわけではなかった。言葉は、数学と違って、人の息吹が加わっている。必ずしも公式化されるものではないことは予想していた。だから、古典にしても、読み方はその一通りでありうるかどうか、大いに疑問であった。まして、古典とはいえ、奈良時代から江戸時代まである。それが、同じ文法ですっきり説明できるようには、とてもじゃないが思えない。同じ時代でも、作家によって、言葉の感覚はいくぶん違うのではないだろうか。それに第一、公式どおり訳したら、なんだか不自然な会話になっていく、などの感想を持つことがあると、もうだめである。すべてが迷いの中に入ってしまう。
 この本は、いくらか実験的な試みでもある。古文の世界の、表現豊かな助動詞の種類が、現代にいたるとごく少数に収束されていく。現代では一つで済む言い方が、古文ではいくつもの助動詞に分かれていく。それで、訳詞分けは、別の副詞を補ったり、特定の表現を長く付けなければならない事態に陥る。
 この背景を、ひとつの原理的な指摘によって説明してしまおうというのである。そのための原理が、krsm四面体というものである。それが何であるのかについても、どうぞこの本で触れて戴きたい。著者は、「けり・き・ぬ・つ・たり」と続けて検討することで、その背後にある日本人のもつ表現方法を明らかにしようと試みている。これらは、現代語では、「た」一つになる。それで、「た」が、完了や結果のみならず、突き放した過去をも担うようになってしまった。そのメカニズムはやや仮説的な段階に留まっているかもしれないが、著者はそれを、明治の言文一致運動の中での扱われ方から少し紹介し、散文からむしろ遅れてこの利用に足を踏み入れた詩的文章のほうへも、視線を向ける。
 なにせ生き物たる言葉の問題である。著者も、断定的にすべてを説明できているとは考えていない。また、以前自分が提示した理論をもこうしてまとめていくときに変更せざるをえなかったことも告白している。まだまだこの解釈も流動的なのだ。
 時に、根本的な事柄に関する、著名な国語学者の説をも俎に上げ、取り扱う。それを批判することにも遠慮はない。一つ体系を構築していく人は、その点、土台というものをもっている。その意味で、読んでいて面白い。
 ともかく、西洋文法に重ねて日本文法をすべて置き換えて理解しようとした近代的文法理論では、やはり説明が行き詰まるのは必然であろう。概念が違い、また、容器が違うのである。
 さらにまた、現代人が捉えているその文法というものもまた、反省を強いられている時代ではないだろうかとも思う。ギリシア語にしても、アオリストという、現代西洋語でもややなじまないスタイルがあり、それを無理に私たちが学んだ英文法の枠で扱おうとすると、無理が加わるように見なされるようになってきている。それどころか、むしろ英語においても、過去・現在・未来という時制があると考えていること自体、おかしいという見方もある。英文法をダイナミックに理解しようという、NHKでも大きく扱われている有名講師などからすれば、そういう三つの時制という概念は、語形変化からしてもおかしく、また、理解するときにも、奇妙なこじつけがむしろ多くなるのだという。自分からの距離の大きいものを、単に過去と呼んでいるなどといった説明を聞くと、私が高校の頃にそうした文法を知っていたら、絶対に英語という教科を苦手にすることはなかったはずだ、と悔しくさえ思うのである。
 だから、この日本語を時間から捉えるという試みも、私をわくわくさせるものであった。そして、時間というものへの問いが、必ずしも西洋哲学的なもので終わらないということも、改めて確信させるのであった。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります