『日本語の手ざわり』
石川九楊
新潮選書
\1050
2005.5
個性的な本に出合うと、うれしくなる。
必ずしも、賛同しなくてもいい。それなりの根拠をもって、堂々と意見を構えているとなると、たとえるなら、贔屓のチームのライバルチームにいても良い選手は良い選手だということで、応援したくなる。
著者は、日本語をこう規定する。「日本語は漢字と平仮名と片仮名という三つの文字を使う、世界に特異な言語である」
この言葉で始まり、この言葉で終わるという、「はじめに」の公約は、見事に果たされた。
そもそも日本語について知ろうというふうな企画はかなり当たるものとされ、それほどに日本人は日本人論や日本語論が好きだ、という指摘がある。しかし、ある意味でこの著者は、なぜそんなことが起こるのか、という問いに対する答えを、言葉が思考をリードするという立場から、日本語について、とくにその文字における歴史と背景を論ずることによって、下しているように見える。
従来の皮相的な日本語論とは異なり、かなりユニークなものとなっており、それだけでも、この本は一読の価値があると思うのであった。
縦書きから横書きに変わったことから、丸文字が発生したメカニズムや、同時に鉛筆の握り方が変形していく様が語られるところは、わくわくしながら読んだ。
他方、書について思索を深めている著者は、縦書きが日本の宗教の姿であるという言い方を始めるが、ここが十分膨らませてあるとは言えないわりには、かなり信念に近いものがあるように感じられた。ここはぜひ次に展開して戴きたいテーマである。
そのとき比較に出される、一神教における言葉の問題であるが、さて、そこには十分な説得力があったのかどうか、は疑問である。日本や中国に対する深い理解と分析に比べると、よくある通説で簡単に西洋文化を斬ってしまっているように、見えなくもないからである。
ともかく、縦書きをすることで鉛筆の持ち方が直り、学力低下も避けられるという理論は、どこか超越しているようで、見ていて面白い。だからこそ、縦書きは宗教であると言い切っているのかもしれない。