本

『日本語の歴史』

ホンとの本

『日本語の歴史』
山口仲美
岩波新書1018
\777
2006.5.

 国語を教えるとき、言葉について当然話すわけで、そうなると、そもそも日本語はどういう歴史をもっているかが気になるのは当然である。通り一遍の知識はあるつもりだったが、それは自惚れに過ぎなかった。つまりは何にも分かっていなかったのである。
 国語の学界でも、意見はいろいろ分かれている。だから、定説があるとはいえないことが多い。語源についてもあやふやであるだろうが、文法的振り分けについては、学校文法の落ち着きとは裏腹に、実のところ様々な説がある。
 誰か、ひとつの標準を教えてくれないだろうか。しかも、曖昧な説というよりは、何か確定的なことを、しかも、それらの歴史のつながりをスムーズに理解させてくれるような。つまりは、山川が出している、大人がもう一度読み直す歴史の教科書のように、読めばすんなり入ってくるような、日本語の歴史の著述がないだろうか、とかねてから思っていた。
 いやいや、案外身近なとこめにそれはあった。この新書である。
 政治の時代と言語の歴史は必ずしも一致しないと理解しつつも、それでも概観しやすいように、各章は時代毎に分かれている。つまり、奈良時代ならば漢字という話題、平安時代ならばかなが交じっていく過程が重要であろう。それも、単純に女が使うひらがな、などということでもないらしいから、内容は本書を辿って戴きたい。
 鎌倉と室町時代は、武士の台頭が標準となる言葉を変えているという。はたして庶民はどうかという気もするが、概ね、もてはやされた気風は、他の文化一般にも言えることだから、この言葉の上での趣味の変化も、うなずけるものである。とくに、ここには係り結びの変形とその訳が、細かく記されている。中学生には、係り結びの例外というのは説明されないことになっているが、事実上、係り結びなどというものは、すでにこの武士のはじまりの時代において崩れかかっており、これがすっかり崩壊して現代に至るのであるから、このターニングポイントの理解は、ことのほか重要であるといえる。
 江戸時代になると、もう現代と限りなく近づいてくるのだという。ただ、江戸っ子の言葉は、とてもじゃないが今の共通語ないし標準語というようなものとは違う。どうして山手の言葉がかつての標準語になっていったかというところにつながる伏線のようなものである。江戸時代の、べらんめぇ調の言い方の特徴が、規則のように説明されるというのは、なかなかの快感である。
 そして、明治に入り、言文一致への流れが説かれる。それはやはり、すんなり流れ着いたものではなかったのだ。社会的背景なども含め、言文一致が紆余曲折の末に今に至ったものであるという運動であることが、こんなにも合点がいくように簡潔に説明された本に、私はいままで出会ったことがなかった。
 そうして、今後の日本語についての展望を著者は綴る。そればかりはこれからどうなるかということだから、予想に過ぎず、当たるかどうかは分からない。だが、それとは関係なく、願うことはあってもよいだろう。また、今の私たちは、何を問題として考えていけばよいのだろう。
 こうなると、私たちは哲学的な問いにすら辿り着きそうである。そもそも言葉とは何だろうか、と。
 読みやすく、それでいて内容が濃い。国語教育に携わる方や、高校生以上の学習者に、これはとにかくひととおり見ておくべき本だという点で、私は勧めることができる。もとより、国語学的に一般にどうかということは分からない。が、係り結びにしろ文学史にしろ、また漢字というものの扱い方にしろ、大いに学ぶところの多い本であることは間違いない。
 自分の使う日本語についても、反省させられることも確かである。




Takapan
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