『新しい天 新しい地』
女性教職神学研究会編
日本基督教団出版局
\2400+
1997.5.
女性教職神学研究会というの組織については、知識がない。調べてもよく分からない。その名前の通り、女性の牧師や伝道師たちの集まりであることは間違いないだろう。数冊の本を時折発行しているので、これはそのうちの一冊だと理解できる。
これは「ヨハネの黙示録」についての説教集である。黙示録については、力のある方が挑み、時に聖書そのものの翻訳者を含め、いくつかの良い解説書が出ている。それに比べると、説教集となると、研究や知識を授けるものではなくなっている。かといって、それを踏まえず自分勝手なことを述べるわけにもゆかない。さらに、それは、聞く者を生かす言葉でなければならない。そして根本的には、それは神の言葉でなければならない。説教は、一定の根拠のもとに、命を注ぐ言葉であるはずなのだ。
さて、わざわざ「女性」という名が付いている。すべて女性の説教者によるものである。最初のほうにある、七つの教会への手紙については、それぞれ分割されているが、その他は概ね一人が1章ずつ担当する仕組みになっている。手分けして、担当が定められ、説教原稿がつくられた、と見られる。果たしてこれらが、実際にそれぞれの教会で語られたのかどうか、それは定かではない。たぶん語られたのだろう、とは思われるが、分からない。語られたとしても、それぞれ非常に短いものである。多少ばらつきがあるが、短いと5頁で終わるものもある。
たとえば加藤常昭先生の説教集があるが、もっと大きな判で20頁くらいが一つの説教である。実際に語られた説教ばかりであるから、小一時間かかったのではないかと推測する。それに比べると、本書の説教は、それぞれが短い。編集上の理由もあるのだろうから、それはそれでよいのだが、そのために、エピソードや関連事項のようなものを載せる余裕はない。不謹慎な言葉だが「遊び」がないのである。
そうなると、黙示録についてのメッセージとしては、案外コンパクトでストレートに受け取ることができることが期待できる。確かにそうだった。そして、聖書解説が目的ではないから、聖書本文を読解するための説明がメインというわけではない。あくまでも「メッセージ」である。従って、キリスト者として生きるにあたっての心構えや励まし、それから教会がどのような信仰に立って活動していくかといった問題を、よく伝えていたように思う。つまり、個人としての信仰の持ち方と、教会としての姿勢といったことが、バランスよく描かれていたように思うのだ。
それがまた、黙示録について、自分独りで読みこなすにはしんどいと思う人が、ある程度それについての知識や理解を与えられる場として、そしてそこから今日自分が立って歩くための力を受ける場として、励まされることであろう。
女性教職神学研究会がどのようなグループであるのか、寡聞にして存じ上げないのであるが、印象としては、福音的な、個人の信仰体験のはっきりした方向性を感じた。決して聖書を文献として研究して、あれはどうだこれはどうだ、と議論する場ではなさそうに見える、ということである。聖書の言葉によって一人ひとりが変えられて、新しい命に生かされることが目されているように思えた。
一つひとつの説教が短いが故の特徴であろうが、主張がひじょうに分かりやすく、回りくどい説明はない。さらに、聖書的な議論をするつもりはなく、これはこうだ、と明確に示す。その分かりやすさと裏腹に、神学的には他の議論もある、という捉え方がないわけではないが、そこは目的からして受け容れるべきであろう。
ただ、これがすべて「女性」からのメッセージであるということは、本書の最大の特色である。その点で言えば、改めて「女性説教者」の風を強く感じることができるチャンスであった、とも言えるだろう。私からすれば、いわゆる「女性らしさ」のようなものを感じることはなかったと言ってよいだろう。それは、ジェンダーの視点からすると、それでよいのである。いかにも女性らしい、などというふうなものを出すことがなくて、結構なことなのである。否、むしろ一般的な説教集を背景に置いても、本書の説教は、なかなか鋭く、断定的で、聖書を通じて見解をどんどん突っ走らせるようにも感じたのである。
社会への眼差しにも、厳しいものを覚えることが多かった。その中で、私の感覚と少し違うところをひとつだけご紹介する。
1995年、オウム真理教事件が世間を騒がせたことは、この黙示録を扱う動機の一つであったのではないか、と推測する。特に「ハルマゲドン」が流行語のようになったところへ、黙示録の真意を語ることは、各教会に求められたものであっただろう。また、同じ年に阪神淡路大震災が起こっている。関東大震災以来の大規模な地震災害であった。一日中テレビ中継されたことで、国民の心に鮮明に刻み込まれた震災であった。
ある説教が最初に「災害は、いつもは見えないものを露わにする」と世間で言われると引いていたことから、私は期待した。私は同じ関西で、あの震災を見守っている。「いつもは見えないもの」、それは、災害が起こってこそ知り得た「日常の大切さ」のようなものだ、と説教が語るのか、と思ったのである。あるいは、それまでなにげなく触れあっていた隣人たちが、互いに助け合う存在である、ということを深く知った、ということかな、というふうにも思った。災害が、気づかせてくれるのは、そうしたことかな、と思い込んでいた。
ところが、説教は、経済などの発展が神話に過ぎず、終末を社会が見つめた、ということであった。私が期待した、ひとの心の問題には少しも触れず、豊かさの夢が崩れたこと、そして聖書の「終わりの時」の問題だけが、そこから続いていったのである。黙示録の説教だから、それはそれで間違ってはいないのだが、「いつもは見えないもの」という誘い水が、私の予想とは全く違う方向に走っていったことを、私個人は意外に思うしかなかった。
それくらい、本書の説教は、厳しいのである。もちろん、それは男社会への断罪などというものではない。ともかく聖書を、かなり原理的に、ストレートに読んでいる、ということなのだろうと思う。世界情勢についても、日本人の精神構造についても、きっぱりと斬り捨てるような勢いが、随所に見られる。ここにいる女性牧師たちは、まわりくどい配慮をしない傾向にあるのかしら、と感じた。偏見かもしれないが、それは私の印象である。本書を味わう方がいらしたら、その点だけを受け容れて読んでいくとよいだろう、と思う。良し悪しではない。そのような傾向があるのではないか、という意見である。

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