本

『新しい創造』

ホンとの本

『新しい創造』
太田道子
聖公会出版
\1800+
2014.11.

 訳あって、聖公会出版の本を安く入手できるルートがあることから、見出した一冊。メジャーな出版のされ方をしなかったと思う。つまり、私の記憶にはこれが出版された時にニュースとしては伝わってこなかった。確かに、そういう扱い方をされにくい内容ではないかと思う。しかし、こうして手に入れて読んでみたから、ではないが、含蓄深い、そして教えられることも多々あったのであった。
 最初に注意しておくと、聖書を文字通りに信仰するという態度からは、著者は完全に遠い。現代の研究や理性的な判断からして、古代人の思考のひとつの結実であるとして聖書は捉えられても、書いてあることがそのまま信頼に足るとは考えていない。しかしそれは、神を信じないというようなことではない。この辺り、分かりづらい方もいらっしゃるかと思うが、聖書に対して、それの歴史性や事実性といった点については、距離を置いて見るのだが、神の前に出る自分と、神から期待されている自分のあり方、人間としての生き方については、正しいものだとしてそれを受け容れるのである。
 このことは、時折触れて語られるので、読んでいけば分かるのであるが、もしかすると信仰的にこうした考え方の人に抵抗があるという方がいらっしゃると、そこで読むのを止めてしまいかねないので、それもまたもったいない話だと思い、ここまで触れてきた。  さて、著者はアメリカのルーテル神学大学院や、ヘブライ大学などで堂々とした学びをされ、ローマの教皇庁立聖書学研究所などでも務めている。新共同訳聖書翻訳にも携わり、古代オリエントについての造詣が深い。しかしなお、学者としての働きだけではなく、現実に世界で人権を侵されている人々のための運動に関わり、活動しているというから、すばらしい働きであると言わざるをえない。本書でも、事あるごとに、いまこの世界で虐げられている子どもたちや、戦争の犠牲になっている庶民とその生活のことを考えてみるように、と注意を促される。聖書を読むにしても、まさにその聖書が現代の声となって、ほらあの世界の難民が、聖書のここに書かれている人々なのだ、そこにあなたはどう関わろうとするのか、どう祈っているのか、と問われる。
 この姿勢が、いまを生きる私たちに相応しい聖書の読み方であると、私も確かに思う。抽象的な議論をして満足したり、知的に聖書の謎を解読したとか、聖書の意味は歴史を調べるとこうですよとか、自分たちのグループが見出した真理こそが聖書の真理なのですとか、そんなことをほざく組織とその組織の定めた考えに洗脳されて喜んでいる人がゴマンといるが、とんでもない聖書の敵であると私は常々考えている。そして、その敵寸前なのが自分であるということも、自覚している。私は誰を助けたのか、誰に関わっているのか、それについては全く何の貢献もしていないに等しいのであるからだ。
 本書は、最初のほうで「契約」という概念を掲げる。要するにこの「契約」という考え方だけで、聖書を捉えていく、というのが本書のスタンスである。これは何も偏った捉え方ではない。旧約であれ新約であれ、その「約」は、紛れもなく契約のことなのである。だから、その契約という観点から、十戒を読み解くことに始まり、教義的なことについて聖書を読み直す作業がずっと続いていく。そして題名にあるように、「新しい創造」を果たすべく、私たちはいまを生きる意味を問いかけられるということになっていく。
 この問いかけに応える祈りをなし、歩みをなすならば、神は必ず共におられることだろう。まるで条件文のようだが、神の限りない恵みと憐れみに鑑みて、私たちが救われるために何かをする、というような考えを推奨しているはずはない。そこは短絡的に決めてしまわないでもらいたいと思う。読者としての私は、著者から、あるいはその向こうにある神から、問われるであろう。それを感じる能力のない人には、本書はただの文字であるに過ぎない。恐らくそのような人は、聖書を読んでもそうであろう。研究対象や、何か自分が偉くなるための権威づけに役立つ書という程度でいつも取り扱っているに過ぎず、そこに向き合い、神と出会うという営みの中から、問いかけられ、レスポンスしていくという経験をもたないのであれば、およそ誠実などんなキリスト教関係の本を読んでも、感じるところはあるまい。私たちはもっと、チャレンジを受けるべきなのである。




Takapan
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