『新しいパウロ』
N.T.ライト
前川裕訳
新教出版社
\2700+
2025.12.
パウロの新しさとは何だったのか。
本の帯に大きく見える問いかけ。その「新しい」という標題だが、原書はこの邦訳に20年先立つ。いったい、日本の神学やキリスト教理解は、これほどにタイムラグを強いられるものなのだろうか。世界の潮流についていっているのは、語学に長けたごく一部の神学者だけでしかないのではないか。そもそも読書が限られるこの類いの本などは、翻訳の出版社がそれを許さないのであろうか。
N.T.ライトという名前は、ようやく訳書でかなり知られるようになってきた。ニコマス・トマス・ライトは、1948年に生まれたイギリス国教会の聖書学者である。その主教まで務めた人物であり、信仰としては伝統的な立場にあると見られる。だが、その考察にはユニークさがあり、そのためにまた引っかかりをもつ人々もいるようである。
ただの歴史を見るのではなく、私たちの今の状態に引き寄せる術ももっている。自分の信念というとおかしいかもしれないが、自身の信仰を貫く理論を掲げようとしているるように窺える。
さて、本書は、専ら「パウロの福音理解」に的を絞った形で、ライトの思想を広く知らせ、訴えるものにもなっている。それは、ただの抽象的な解釈ではない。私たちの立つ場所から眺めてもよいが、それはパウロの理解にはならない。パウロは、当時のユダヤの中でどういう立ち位置にいたのだろうか。特に、ローマ帝国の支配の下で、パウロの立ち方はどうであったか、パウロはどのように生きたのか、そうした点を適切に見つめようという姿勢が印象的である。そこに確かに生きていたパウロが、何を見て、何を思い、どう感じていたのか、そこにも気を配ろうとするのである。
私はその神学を評するような偉い立場にはないので、本書の流れを目次に従って辿ることにしよう。
「パウロの世界とパウロの遺産」と題した第1章では、本書が提示しようとする新しい視点を読者に期待させている。第2章は「創造と契約」ということで、この二つの概念を軸にこの後に議論が展開してゆくことを示す。それはイエスに繋がることである。第3章は「メシアと黙示」と題して、イエスがメシアであるということをパウロがどう捉えていたか、本筋に入る。そこには「神の義」あるいは「義認」ということが強く関わってくる。第4章は「福音と帝国」であり、ローマ帝国の内部に於ける立場について考察する。ここまでが第一部である。「パウロの主題」を示した。
第二部は、「パウロ思想の構造」として、まず第5章で「神について考え直す」と言って、唯一神信仰をテーマに論じてゆく。第6章は「神の民を造り直す」と題し、神の民の「選び」について解き明かす。第7章は「神の将来をイメージし直す」と言って、ここでは「終末論」をテーマに語る。第8章で「イエスとパウロ、および教会の働き」と、その題の通りに、本書のまとめを明らかにしている。イエスが実際に癒やしの行為によって神の国の到来を知らせていた。そこには「信仰義認」というパウロの強調する教義は感じられなかった。しかしそれは、互いの使命の相違ではあっても、福音の相違とは言えないであろう。役割や肩書きが違えば、当然口で語ることも別の角度からになるはずである。パウロは異教世界の中で闘うこととなった。神の啓示が新しい民を形成する。そうした教会という信仰共同体を、パウロはなんとしても建て、維持しなければならなかった。差し迫った週末を気にする一方、イエスから自分が受けたものをきちんとした形で提示する重荷を担っていたことになるだろう。なんとしても異邦人に救いをもたらしたい。パウロの熱意は、本当に神がかりなものであったと思う。
そして、パウロがどうであったか、という他人行儀の研究に明け暮れるのが、私たちの使命ではないだろう、というところへまでもってゆく。私たちは、これまでも、そしてこれからも、「愛のストーリー」を語り、足跡を刻んでゆかなくてはならないのである。私たちは、本書の出来具合を検討していじり尽くすというよりは、本書から勇気を与えられて、私たちの福音の道を生きたいと願うべきではないだろうか。異教の中で、終末を見越して、神の義を伝えるのだ。否、私自身が、それを生きるのでなければならない。愛のない私に、こんなにも激しくぷつけられてきた、神の愛が、真実であると思うのなら。

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