本

『新しいヘーゲル』

ホンとの本

『新しいヘーゲル』
長谷川宏
講談社現代新書1357
\840+
1997.5.

 中公新書の幸福論で知った人で、学者肌ではない在野の哲学者という触れ込みをもっている著者は、独自にヘーゲルを読んでいる。学術的な細かさには欠けるかもしれないが、思い切った意見を述べることができるというのは強みかもしれない。
 今回はそのお得意のヘーゲルである。さすが読みこなしているだけあって、淀みなく紹介してくれる。しかも、分かりやすい。
 ヘーゲルとくれば、難解な用語を使う上に、それが意味しているところが何であるのか、抽象的すぎて分からない。精神が発展して歴史をつくるなど、その世界に入り込んでしまわない限り、意味不明と言われても仕方があるまい。カントのように、用語は難解でも、定義さえ受け容れれば命題そのものは論理的に押さえることができるのではなく、若いヘーゲルの情熱から勢いで述べているような命題は、それが具体的に何を指しているのかを聞くことなしには理解しづらいと考えられている。
 そこへ、本書は、やたら具体例で埋めるのではないにも拘わらず、ヘーゲルが何を想定しているのかをその都度明らかにしながら、ざっくりともちかけてくる。この方法は、従来のヘーゲル解説のように、結局ヘーゲルが言っているのと同じことをくり返すばかりで紹介したつもりになっているようなタイプの学者先生の本とは異なるものであると言えよう。いわば学習塾の教師が、生徒が把握しやすいようにあの手この手で話をもちかけるかのように、どうしたら読み手が理解しやすいだろうかということを中心に置いて文章を綴っている印象だ。
 だからまず、哲学が難解と言われる背景から探る。表現は親しみやすく、気取ったところがない。そして『精神現象学』に入る。学者だったらその全部を紹介しようとするだろう。その意味では、概観するというタイプに近く、どういう考え方を理解すればヘーゲルの考えの方向性を知ることができるかというところに、心血を注いでいるように見える。理性的なものと現実的なものとについて有名な言葉があるが、ここには少々説明を多くしている。そこにヘーゲル全体を理解する基本があるということなのだろう。
 芸術や宗教というものを尊重するのは、西洋近代哲学のひとつの常道であろうか。人間の精神世界への敬意がこういうところに払われているということになるのかもしれない。しかし哲学者により趣味も異なり、ヘーゲルであったら古代ギリシアの美に惹かれているのだが、そこには宗教と重なったものとしての完成度の高さを見ていたからであるらしい。ヘーゲルは、いわゆる信仰者というタイプではない。だがもちろん、キリスト教社会の中にいる。世界観もそれに基づいているところが当然ある。だから、歴史の中に精神が展開していく様を思い描くにしても、どこか世界の終末に向けて進んでいくようなイメージがないわけではない。ただ世界は精神史であって、その意味では素朴に良きものに向けて歩んでいるとしか考えていないところがある。芸術については西洋においてギリシアの後に下降したことを認めるが、それは内面的な深化のために必要な道であったということになっているそうだ。
 神と向き合ってへりくだるばかりが人間ではない。また、神との神秘的な一体感を目指すのがよいのでもない。自分の中には、偉大なる精神があるのだ目覚めるのだ。その黙想が祈りの優れた形である。ヘーゲルは、カトリックの考え方には特に抵抗していたようだ。自由で自立した人間であってこそ、その世界精神の一端を担うこととなるだろう。
 お気づきのように、教科書的な「正反合」の公式をなんでも当てはめて、ヘーゲルを教えたつもりになるような手段を、著者はとっていない。ヘーゲルの立場や考え方を、できるだけ等身大に読者の目の前にもってこようとしているように感じる。人間ヘーゲルを連れてきて、私たちがそのヘーゲルと出会うことができるようにと導いてくれるかのようだ。
 それでいて、ヘーゲル教を伝道しようとしているのでもない。ヘーゲルのように精神への信頼と称賛とに明け暮れてきたのが「近代」の姿だとすると、それでよかったのかどうかを考えようと促す。フランス革命は本当にそれでよかったのか、考える余地がありそうだ。また、ヘーゲル以降、キルケゴールとマルクスがヘーゲルに立ち向かうようなあり方で新しい時代を築く思想を生み出したが、それはヘーゲルの精神の展開の中には位置することのなかったものであろう。ヘーゲルが拍手喝采していた西洋近代は、ヒトラーを生んでしまった。ヒトラーは精神史の虚像を破壊するようなことをしたのではないだろうか。
 ヘーゲルを嘲笑うかのように起こったこのナチズムの事実をも含めた形で、私たちは西洋近代史を冷静に捉え直さなくてはなるまい。西洋近代とは何だったのか、それを乗り越える思想が20世紀辺りから目白押しなのだが、果たして乗り越えることができたのかは、極めて怪しい。モダンな思想も、ただの混乱の中にうごめいているだけではないのか、私たちは問い直す必要をもつ。時折言われたように、それをこそ非西洋である日本が担うのだ、などと単純な楽観も私はもたない。それを言うなら、思想史に挙がらないような世界各地の考え方というものがあるはずである。
 ヘーゲルを契機として、近代の延長の中にありながら、そこからの呪縛を解くべき私たちはどうすればよいのか、どちらを向けばよいのか、そんなふうに考えさせてくれる、良き実践であった。だからこそ、そのようなヘーゲルの捉え方と位置づけが、私たちには新しく必要なものであったと言えるのかもしれない。




Takapan
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