本

『わたしを離さないで』

ホンとの本

『わたしを離さないで』
カズオ・イシグロ
土屋政雄訳
ハヤカワepi文庫
\800+
2008.8.

 2017年にノーベル文学賞を受賞。長崎県生まれで日本名をもつことから、日本中で祝祭ムードが漂った。そこから読まれるようになった、と言ってもよいだろうかと思いきや、さすが早川書房、その前からもたくさんの本を翻訳出版し、多くのファンを生んでいたのだ。
 5歳でイギリスに渡ったというから、実質言語は英語である。そして英語文化の中で、イギリスの風を送ってくれる。日本人からすれば、イギリスの古い習慣や歴史を伴うものの考え方などの厚みをもたせた物語が、数多く生み出されている。
 かくいう私も、カズオ・イシグロ氏の作品をきちんと読むのはこれが最初である。だからまた、先入観なしに、楽しませてもらったと言える。
 最初に言わねばならない。私は楽しまれてもらったのだが、その理由のひとつは、本書の翻訳にある。これが翻訳だろうかと改めて驚くほどに、自然な言葉であり、イギリスの文化の中に、すっかり居ついてしまっていたような錯覚すら起こしていた。見事な翻訳だと言ってよいのではないか。もちろん、原語との対応がすばらしいなどということを審査しているわけではない。この日本語の本が、知らないはずの文化を、一読して極めて分かりやすいものに変えてしまっていたのだ。翻訳者に拍手を贈りたい。
 舞台は全寮制の学校。だが、異文化にしても、あまりに通常の学校とは違う雰囲気に、読者はいきなり戸惑うことだろう。いくらイギリスでも、何か違和感を覚えた人、実は正解である。だがあまり拘泥せずに読み進んでよい。
 語りはキャシー。現状を読者に伝え、あとは思い出を語る部分が多い。「介護人」を十年余勤めてきたが、もう少しでそれを終えるという。キャシーは、提供者を介護するのが仕事だという。この仕事のことが、後で大きな意味をもつようになる。
 回想に入ると、そこでトミーという男の子のエビソードが始まる。12歳くらいの時のことである。印象的ではあるが、よく押さえておきたい。「わたしを離さないで」というタイトルは、歌の題名として登場する。このときもやや異様な風景が目の前に現れる。
 思い出を見ていると、どうしてもキャシーはトミーと深い関係かと思ってしまうそうになるのだが、トミーの恋人はルースである。ルースとキャシーとは友だちであるが、その微妙な関係がずっと後まで影響する。
 ルーシー先生が親しく生徒に話をしていたが、突然学校から消える。これはミステリーだが、生徒たちには深い意味は分からない。この謎を解くために、物語は最終局面を迎えることになる。うっかり見落としていたようなことが、大きな意味をもってくるのである。
 16歳になると、コテージで暮らすようになる。セックスは自由である。子どもは産めないのだという。また、この辺りから「ポシブル」と表現された存在が物語の背後をうろうろする。
 お喋りが過ぎた。物語を追うのはやめよう。
 物語は、2014年に日本で舞台化され、2016年にはテレビドラマ化されていたという。名前が日本名に変えられていることもあり、私はそもそもテレビドラマにあまり関心がなかったので、全く知らなかった。
 彼らの数奇な運命は、興味本位で見ればSFの一コマのようなものであるかもしれない。だが、人類はそれを確かにやろうとしている。否、すでにひっそりと行われているかもしれない。描き方は違うが、手塚治虫もこのテーマで「火の鳥」の一部を描いている。つまり、人間とは何か、生命とは何か、その問いへと私たちを連れて行くことになるかもしれない。連れて行ってほしい。




Takapan
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