本

『ネットいじめの現在(いま)』

ホンとの本

『ネットいじめの現在(いま)』
原清治編著
ミネルヴァ書房
\2200+
2021.9.

 タイトルの漢字に「いま」とルビが振ってある。そしてサブタイトルが「子どもたちの磁場でなにが起きているのか」となっており、この「磁場」というのが、本書のアピールの一つであるらしいことが分かる。
 それにしても、ミネルヴァ書房とは懐かしい。京都で人文系の学部にいたら、どこかでお世話になりそうなものだ。大学のテキストもあったなあ。
 今回は教育学。テーマはもちろん「いじめ」である。が、これに「ネット」という文字がついている。これは最近のことだ。だから、比較のためにも、「いじめ」というものが社会で大きく取り出された歴史をも、中で辿ることになる。
 編者を含む10人がそれぞれの章を執筆しており、それぞれが胸を痛めている様子が伝わってくる。だが、感情に流されるような執筆姿勢ではない。あくまでもこれは教育学的な分野であり、さらにいえば、データを集めデータから判断する、社会学でもある。本書を開いてまず目に付くのは、めまぐるしく頁を埋める表とグラフである。執筆者により手際が違うのか、前半は表と数字が殆どであり、後半は棒グラフと帯グラフが目立った。
 正直、表を読み取るのはしんどい。ここのところの教育改革で、資料を読み取ってその特徴を見いだし文章でまとめるという形式が大きく取り上げられるようになってきたが、それも大抵はグラフである。
 いや、これは学問であるからそうなのだろうが、ある事柄を読み取り示すために、データが大量に見せられるのは、門外漢には疲れるものである。その数字の、どこを見ればよいのか、感覚的に分かりづらく、一面に散らばった数字を見比べて、その多いところと少ないところとを比較して、なるほどそうか、と気づく始末である。そして、そこに出された数字のうち、論旨の上で必要な数字はほんの少しである場合が実に多い。読者に考察の負担を強いる資料の出し方は、一般書では考えものである。
 もちろん、根拠のあるデータは全部示して、その中から見いだすべき事柄を見いだすというのが、一つの手法であることは分かっている。思い込みや感情で論じたようなつもりになるというのは、控えなければならない。だが読者が研究者とは限らない場合、もう少し見やすく構成ができなかったものだろうか。本文ではその資料のどことどこを見るとどうのこうの、と確かに書いてあるので、不備はないが、少し疲れた。
 高校生においてを狙い目としながら、中学生のデータも比較に用いているのは、良い方法である。年代においてどうかという点は考察の要件である。最初にちらりと2015年の調査だということは書かれてあるが、以後データには調査年は記されなくなっているから、後からこれはいったいいつのデータだと疑問に思ったとき、最初にあることを覚えておかないと困るかもしれない。2015年当時に高校生であった、あるいは中学生であった、この世代的な理解もたぶん重要である。本書の調査では、たんに年齢だけで判断がなされているが、その当時の生々しい文化や流行、ネット環境やその影響というものが関係していないか、考察しようと思えば題材はあるはずである。特にZ世代となってからでも、スマホを手にするのが、その当時広くどの年代であることが多かったかという背景ひとつで、捉え方が違ってくる場合があるかもしれない。
 とはいえ、本書はそこまでは問わず、一般にネットを利用しているという前提で捉えていて、それはそれで意味のあることであるに違いない。大人が漠然と、こうじゃないか、と感じていることの一部が、データではむしろ逆に出ているというようなところを発見した辺りは、功績であろう。
 さて、本書のウリはサブタイトルにもあったように「磁場」である。これがどのくらい教育学の現場で一般的であるのか、あるいは本書のグループの慧眼として提出されたものであるのか、それは私には分からない。71頁の書き方であると、このグループが、ネットいじめを誘発・あるいは抑制するような力を持った場のことを「磁場」という概念で捉えたいと考えています、ということから、恐らく後者なのであろう。その割にはこの概念についてもう少し解説したり検証したりすることがなく、もう次の行から、この「磁場」が形成されるのはどのような形かと問い始め、次々と議論が展開していく。この思考法に慣れない読者のためには、もう少し、「磁場」という言葉を使う理由などを説明してほしかった。例えば「ムード」くらいの言葉で従来呼んでいた事柄と、重なる部分は大きいのではないかと思われるが、どうしてそれが物理学のような「磁場」という言葉で説明される必要があるのか、最初から示してくれると分かりやすかったと思う。
 その規定要因など研究結果については、これは私の関与するところではない。学問的な評価は、専門家がぜひやって戴きたい。もし有効な分析であるならば、その「磁場」という概念をもう少し明らかにして、また出会いたいものだ。
 やむをえないとはいえ、本書では、「偏差値」と「いじめ」との関係を幾度もデータ化し、強調している。偏差値が低い高校でいじめが多い場合があるとか、それでもちらばりが大きいとか、統計学的な方法としては有意味な調査となっているに違いないのだが、こうまでも受験産業が規定した「偏差値」が教育学のデータとして活用されるとは、意外な気がした。そもそも、偏差値という数字が生徒の人格や価値を決めるような勢いがそこに現れているような気がして、どこか不快だった。それとも、それは単に読者である私のほうがそうした偏見を持っているからこそ抱く感情なのだろうか。数値化しなければデータとしての意味がないとなると、高校の特色を「合格偏差値」というもので数字にして表さなければどうしようもないという事情は分かる。だが、本当にそうなのだろうか。たとえば普通科と専門系云々という分け方にしてもありうると思うのだが、しかしそれでも偏見を増すようなデータの取り扱い方になるような気もして、複雑な気持ちである。
 最終章は、インタビュアーと三人の執筆者による談話が掲載されている。ここだけは個人技ではない。そしてここには、データ分析はなく、心情的な把握を含めたものが、つまりある意味で本音のようなものが出てきているように思えて、私は一番人間くさいものが出てきているように感じた。本書の最初の方でなされていた「いじめ」と「いじり」の違いとその是非などの問題が深められているが、加害者側が「いじり」と考え、被害者側は「いじめ」と感じているなど、極めて普通の感想が述べられているようにも見えた。そして、「ネットルールをつくる」ことに効果がありそうだなどというところに落ち着き、また「子どもと向き合いましょう」という辺りで話は終わったのだが、ワイドショーのコメンテーターのようなものに収束したようなふうに聞こえるようで、少し寂しい気がした。学的手法をたんまり使い、データを駆使してグループワークがまとめられた末で、いったい私たちに何が提供されたのだろうか、という思いが残るのだった。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります