『ネットいじめはなぜ「痛い」のか』
原清治・山内乾史編著
ミネルヴァ書房
\1890
2011.10.
インターネット、とくにケータイが関わる形での「いじめ」を扱う本である。
難しい問題である。どこから手を付けてよいのか分からないのが正直なところではないかとも思う。そもそも「いじめ」自体が解決不能のような問題である。そこへ、ネットが関わる。即時的であり、しかも子どもたちはいわばネイティブのネットユーザーである。その価値観しか知らない者が扱うやり方は、今の大人がどこか相対的にネットを利用しているのとは訳が違う。「いじめ」たるものがどこか人間の本性に深く根を下ろして存在している要素だとすれば、それがネットという優れた情報ツールで用いられるとなると底知れない威力を発揮することにもなるわけで、解決どころか当面的な対処すらどうしてよいか分からない可能性が高い。また、結果的に間違った対応をしてしまうことにもなるわけで、傷口を深くしていまう。
たとえば、気にしないで無視しておけば、と大人は考える。それができないから子どもは傷つき悩んでいるのである。ネットで晒された個人情報や攻撃の言葉は、全世界に公開されているのだ。見ず知らずの人につきまとわれることも現に起こっている。これを無視しておくなど無理だ。
そもそも学校という狭い社会からはじかれることで「いじめ」も起こっていたし、それにはさしたる理由もいらなかった。目立つからとか陰気だからとか、理由は様々あるにせよ、はじかれる決め手などない。ただ、相手の顔色を見ながらそれに付き添っていかないと危険性が増すのは確かであるようだ。
こうした難題に挑んだのがこの本である。様々な調査を基にして、また現場の声なども詳細に取り扱って、しかし個別の問題の解決ではなく、大きな立場からどう改善していけばよいのかに迫ろうとしている。具体的な事例は殆ど描かれない。ただ、最後のインタビュー形式の章でより動機などの面が現れているように見えるが、いじめ問題への対処が、それぞれの立場から明確に異なるという様子が描かれていて、これは注目に値する。たとえば学校では「いじめ」が発生した場合にどうしなければならないかの取り決めがあるので、なるべくなら「いじめ」が起こったという言い方をしたくない立場にある。こうした内規は一般には分からない。どうりで事件が発覚した直後、決まり切ったように学校責任者が「いじめはありませんでした」やそれに近い発表をするわけである。あったかなかったか、そんなことはよくよく調べてみなければ分からないはずなのに、事件直後に「ありませんでした」「いじめがあったという報告はありません」と言ってしまうのは、あれは世間一般に向かって言っているのではないのである。つまり、教育機関のお偉方に、この問題はいじめであったのにいじめの対処に従っていないからこんなことになった、というような責任問題は発生していませんよ、ということを示すためだったのである。これが、被害者はもちろんのこと、全国各地でいじめの被害に悩んでいる子どもたちやその家族に対してどんなに頭に来る、そして絶望的な表明であるのか、そんなことには、思いも馳せないものなのである。
だがこの本は、そうした点を責めようとしているのでもない。ネットの中でどんなに「痛い」ことが行われているのか、無関心な、あるいは甘く見ている大人たちに、現実を突きつけることが大切な役割のようである。その意義は、読めばよく伝わる。これではいけない、という思いを与えるとともに、大人がありがちに考える対処法では解決にならないばかりか、むしろもっと傷口を広げることしかできないのだ、という点に気づかせるものであろう。親には親の対処がある。だがそれがすべてではない。他の立場からは他の対処法がある。しかしまた、それもすべてではない。そんなふうに、一定の戦い方があるのではないことを伝えるだけでも、この本は十分に意味があるものであると思う。
ただ、気になるところはある。それは、いじめの実態について、アンケートの回答を頼りに論を進めているところが少なからずある点だ。アンケートの回答なるものが、いかに頼りにならないものであるのか、それはたとえば学校で生徒にアンケートを回答させ、いじめの事実はない、と責任回避をするような事態を考えてみればすぐに分かる。アンケートをすれば真実が出てくる、などと考えること自体、いじめの問題を誤解する発想でしかない。たしかに、調査研究のデータとしては、そのようなアンケートを素材にするしかない場合もあるだろう。しかし、アンケートで解決が分かるような問題ならば、そもそもこれほど問題になってさえいないのではないか。アンケートなどに答えられないような状態であり、アンケートの項目に振り分けられないような事態であるからこそ、根が深いのである。つまりは、アンケートの項目は、アンケートをする側の理解で項を作っているに過ぎないわけで、ともかく自分の言葉で真実を訴えること、それが秘密にされ、またそのことを真剣に受け止めてくれることが保証された中で、いくらかの真実がこぼれてくる、というほどに事は深刻なのである。
子どもには、子ども特有の事情があるということは、この本のひとつ指摘するところである。それは弁えなければならない。その視線で見なければ見えないものがあるはずだ。だから、私は大人が原因であると断じるつもりはない。けれども、それでもなお、大人の中でもこの社会でいじめが当然のことのようになされ、またいじめる側が自らいじめているなどと意識してさえいないという現状の改善なくしては、子どもたちの中のいじめの問題も、なかなかよい方向には進まないのではないかと見ている。それゆえにもまた、今の子どもはこうだ、などという態度で見下してはならない。子どもだろうが大人だろうが、ひとりの人間として、向き合う中から、そして一定の立場の論理で押し通すのではない、別の道と融合してゆくことから、何か光を見いだしていきたいと強く思わされるのであった。