本

『ねむり』

ホンとの本

『ねむり』
村上春樹
新潮社
\1800+
2010.11.

 物語が読めればよい、というよりも、本として愛すべきものであってほしい、そのようなタイプのシリーズは、ファンにはうれしいものだろう。また、ファッションとして持ち歩くのにも画になるという意味でも、カッコイイかもしれない。
 村上春樹の短編小説が、そのような形で彩られたものがある。その一冊を手にしてみた。元々「眠り」というタイトルで、1989年の「文學界」に掲載され、翌年単行本『TVピープル』に所収された作品である。
 が、この装丁にするにあたり21年ぶりに改稿がなされ、それが少なからず影響を与えるものとなっている模様で、タイトルを「ねむり」と微妙に変えたのだという。このシリーズでは、美しいイラストが随所に施され、小さなサイズではあるが、ちょっとした豪華本である。
 作品は、村上春樹がローマ在住のとき、一気に書き上げたものである。もちろん元来の「眠り」であるが。ドイツで彼の作品を出版している会社でイラストレーションを付けて単行本にしたものができ、その出来がとてもよかったのだそうだ。元々美術書を多く出していた会社である故のデザインであるのかもしれない。それが日本でも出版されることとなり喜んでいる旨、「あとがき」に解説されている。
 なんでも、ちょっとしたスランプめいたものに陥っていたのだという。書く意欲の問題なのだろうが、そこから抜け出すきっかけとなった作品なのだそうだ。
 物語は、女性の一人語りである。突然、眠れなくなった。夫との生活に不満があるというでもなく、歯科医の夫に支えられた生活は十分安定した楽なものである。夫に対していくらか距離をとっている様子は伝わってくるが、まんざら悪い生活ではない。しかし本当に突然、本人は金縛りだろうかと思えるようなものに襲われ、夜中に本を読み始めて後、全く眠らずに済むようになっていく。かつて読んだ『アンナ・カレーニナ』を読み返し、以前と違った印象で読み進むこととなったが、昼間も睡魔に襲われるようなことなく、毎日スイミングで体を動かし、むしろ生き生きと輝いているような生活が始まる。ただ驚くべきことに、一切寝ることなく、2週間以上も暮らしていくことになるのだ。
 一日が長い。人生の三分の一を睡眠で過ごしているという単純計算を私たちは行うが、その時間を読書に没頭することになる。そのことで、人生観、いや死生観と言うべきか、それまでもが変わっていくのである。
 これ以上ストーリーの展開を紹介することはできない。モノローグの中に、読者はどこかひっかかるところを見出していけばそれでいい。あるいは、純粋にどう展開するかにはらはらすると、それでいい。どこが気に入ろうと、それは読者の自由であり、読者の世界となっていくのだ。
 しかし、生理学上、このような事態は起こり得ないと通常言われている。だから、もしかするとどこかで本人が気づかない間に眠っているのではないか、といった邪推が読んでいて入るのであるが、記述されているものは全くそのような謎解きを含まないものである。そして次第に、いやまずいんじゃないか、どうなるんだろう、とドキドキし始める。
 物語は、通常の生活感覚を抜け出すところに醍醐味があるとも言われる。カフカのように、目覚めたら突然虫になっていたとしても、そのまま世の中が大騒ぎすることなく物語が展開していくのが面白いだろうし、村上春樹にしても、羊男が現れても何か普通の世の中の進み方がそこにあるのだとすれば、読者としては、それを受け容れられずに本を棄ててしまうか、あるいはいっそのこと作者の仕掛けたその世界観に飛び込んで楽しんでやるか、どちらかを選ぶことになるであろう。
 眠れない、というのは、私たちにありがちな一つの悩みである。それが極端になっていくことについて、確かにそんな想像をすることがあり、思い当たるふしがあると言えるだろう。そこを突いてきた本作は、「そんなことがあるはずない」と理性が否定しつつも、「さもありなん」という心情が働きながら、流れに乗っていくことになり、その意味では作者の意図は成功していると言えるだろう。確かに、楽しませてもらった。
 ただ、最後その後どうなるのか、解決がとられていないので、読者は揺さぶられたままに本を閉じることになる。読後も、私たちは揺さぶられ続けながら、この世界は何なのだろう、とそれまでとは違った風景を目の前に感じながら、生きていくことの意味をふと感じることになるのではないだろうか。
 分かりやすい感動や悲劇ばかりが、人の心を揺さぶるものではない。




Takapan
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