本

『猫を棄てる』

ホンとの本

『猫を棄てる』
村上春樹
文藝春秋
\1200+
2020.4.

 話題になっていたが、小ささのわりに価格が高いと感じると、そのうちまた読めるさと放っておくのが、良いことか悪いことか。
 父親について書いている話も聞いていた。副題にも「父親について語るとき」とある。表紙がなんとも風情ある絵で、猫を中心としたイラストが随所に鏤められている。淡くセピア調の絵が、思い出であることを彷彿とさせる。
 筆者自身最後に語っているように、自分の生い立ちについて、とくに父親との関係について綴るというのが、果たして他人である読者にとりどう響くのか、それは相応しい作品となり得るのかどうか、考える必要はあるだろう。だが、それがきっと読者の心に共鳴するからこそ、言葉を換えて言えば普遍的なものがそこにあるからこそ、こうしてひとつの作品となったのだと思う。
 父親との確執については、他でも触れたことがあったはずで、聞き知ってはいた。そうしたものを本書であからさまに暴いているのか、という期待は、しないほうがよい。自ら断るように、あまりに個人的な事情をここにさらけ出すようなことはしないのである。
 では何が描いてあるのか。父親の生涯について、子たる村上春樹が知るところのものを書いている。というより、村上春樹の目から見た父親である。絶縁状態で何十年かを過ごしたものの、父親の死を前にして再会を果たしているし、それを自身「和解」と呼んでいる。もちろん、その内容をここに示すというものではない。
 題の「猫を棄てる」。村上春樹が猫を愛することは有名だが、少年の頃にこうした出来事があったということは、なんともいえない感情を呼ぶ。これもひとつの文学だとすれば、それをここで明かす気持ちにはなれない。父親と二人で猫を棄てに行った経験、それがひとつのシンボルとして、父を語る背景に通層低音のように流れ続け、最後にまた振り返る。そしてさらに、最後を飾るのは、もうひとつの猫のストーリーである。
 猫を棄てたことが実は棄てたことにならず、棄てもしなかった猫が棄てられたのかもしれないという対照的な猫の思い出であるのだが、そこに父親と自分との関係の何かを感じさせるような気がしてならない。
 父親の戦争体験については、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』がノモンハン事件を描いた辺りで、言及されたことがあったような気がする。その父親と戦争との関わりが、本書の思い出の多くを占める。僧侶になりかけ、文学を愛した父親が、偶然のいたずらで戦地へ赴き、これまた偶然であるかのように命拾いをし、戻ってきた。戦争で何があったのか、詳しくを子に語ったことはないというが、村上春樹自身、そこに何らかのものを受け止めている。この重みは、彼の作品の中の戦争世界として活かされているようにも思える。
 ネタばらしは私の好むところではない。だが、心にずんと響くものについては自ら押さえておきたいと願う。本書の終わりのほうに、こんな言葉があった。「結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。」木の上に登った猫が降りられなくなったエピソードから、こんな深いところに眼差しを向けるということは、さすがだとも思ったし、これは私たちに向けられた刃だと思った。
 人は、「偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのこと」なのであり、「膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない」のではあるけれど、「その一滴の雨粒には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを【受け継いでいく】という一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう」とも言っている。そして「たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても、いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが【集合的な何かに置き換えられていくからこそ】、と。」と告げる。心が震える、力のこもったまとめではないだろうか。村上春樹が、型破りではあるが、確かに文学者であることを強く知る言葉であると私は強く感じた。
 個人的に、父親と福知山との関係、また福知山の師団の悲劇について多くを教えてもらったことで、より彼を身近に覚えたということも、付言しておく。




Takapan
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