本

『落語絵本 ねこのさら』

ホンとの本

『落語絵本 ねこのさら』
川端誠
ロクリン社
\1700+
2024.3.

 A4大の大きな絵本は、ハードカバーが丈夫に作られている。黒い縁取りでしっかり描かれた表紙には、人物が二人のほかには、猫が多数。舞台は江戸時代と思われるが、江戸時代には空前の猫ブームがあったもいう。特にこのお話では、その猫ブームが鍵になることもないので、いまの風景としてあってもおかしくはない光景がそこに展開されることになる。
 骨董屋の日常的な商売の具合がまず説明されると、その骨董屋の主人が、骨董を探しに旅に出る場面が始まる。これがこの話の骨子となる。あいにく、なかなかよい焼き物が見つからず、とうとう宿場はずれの茶屋まで来てしまった。
 茶屋のじいさんに茶を頼むと、そのじいさんは、茶を出すと共に、ねこのご飯を用意する。このじいさんが、表紙の人物の一人である。
 ねこのご飯が入れられた器、これに骨董屋の目は釘付けになる。それはそれは銘品とされる、「高麗の梅鉢」に違いない。まさか、そんな高価な代物が、猫の餌の器に使われているだなんて……。骨董屋は考える。これは、器の値打ちを知らずして、猫になど使わせているに違いない。なんとかして、この器を手に入れられないだろうか。
 もちろん、それは高価な器ですから買い取りましょう、と願い出る方法はある。だが、骨董屋は、その道は採らなかった。
 さて、ここからは落語の佳境に入ってくるので、物語の展開は一切明かさないことにする。絵本では、その辺りのやりとりを、けっこう文字を多くして、綴っている。落語でも、聴かせどころなのだろうと思われる。ここをじっくりたっぷり聞かせることによって、客の気持ちを、この場面に引き入れ、留まらせるからだ。
 キリスト教の現代的な問題について考察している文章があった。現代的とはいっても、すでに数十年経ってから私は読んだので、いま真新しいというものでもない。私も知らないような、キリスト教界での悩みや模索といったものの、過去のある時の姿を垣間見ることができるものと思えた。そこに、近ごろは人の興味を湧かせるために、落語を学ぼうとする牧師たちの動きも一部にあるそうだ、といったようなことが書かれていた。もちろん、その筆者はそれを良しとしているものではなかった。ただ、戦後間もなくのキリスト教ブームが記憶にある人々からすれば、その後の凋落ぶりは頭痛の種であったことだろう。巻き返すにはどうしたらよいか。そのためには様々なアイディアが募られていたのだろう。落語も、そのひとつとして浮かんでくること自体、責められるものではないかと思う。ただ、説教論の中に落語が登場する、というのは、やはり日本的である。日本的なものが悪いというきまりはないのだが、安易に同調してよいかどうかは、やはり疑わしいと言わざるを得ないだろう。
 それでも、話術としての落語には、確かに魅力がある。この話芸は、人の心を惹きつける魅力を確かにもつ。枕から惹きこみ、期待をさせ、期待を裏切らず、それでいて予想した通りにとは限らない仕方で、さわやかに話をまとめる。すべては笑いの中に、あるいは涙の中に、心にしっかりと跡を残す形で、展開する。説教というものが、ひとつの理想のように落語を見つめることも、確かにあり得たものであるのだろう。
 実際、「福音落語」というものを口にして、各地を巡っている方もいる。話を聞かせることの中に、確かな福音を伝える、という使命である。これは牧師ではない。説教者とは言えない。あくまでも落語が主体なのである。大いに用いられて戴きたいと願うところである。
 誤解を招かないように申し伝えておくが、この絵本は、聖書とは何の関係もない。ただわははと笑えたらそれでいい。絵本作者も、子どものころに聞いたこの落語が面白くて、その後半世紀を超えて、こうして絵本という形に整えることができた、ということらしい。落語にとり、半世紀くらい、なんという時の違いを感じさせないものなのだ。福音もまた、たぶんそうなのだろう。




Takapan
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