本

『猫がこなくなった』

ホンとの本

『猫がこなくなった』
保坂和志
文藝春秋
\1700+
2021.1.

 九つの短編を収めたもの。「文學界」などに発表したものが集められているが、もう少し早く発行されてもよかったような時期ではあるから、長さ加減なども編集の決め手になっていたのだろうか。
 相変わらず猫がよく登場する。うち幾つかは、猫にしか焦点が当たっていない。
 ストーリーを追いかけても仕方がないし、それだと営業妨害になってしまうので、やはり胸を強く打った切ないところを切り取ってみようかと思う。
 もちろんそれは、二匹の子猫の死を描いたものである。しかも執拗に、そこに留まって語り続ける。描写だけではない。そこへの思いが後から後からくっついていく様子を、とことん明らかにする。もう切なくて仕方がない。
 そこに、哲学思想が絡んでくる。なんとか思想の中で情念を昇華しようとしているかのようにえら見える。これは絵本「チャーちゃん」につながる糸をもっている。死んだ飼い猫チャーちゃんが、その後楽しそうに踊っているのだという世界を描くこの絵本。死んだ猫は消失したのではない。存在が続いているという一つの発見が、この子猫たちへの思いにもつながっていく。
 この子猫の話は、若い友達が拾った二匹の子猫である。生まれて1週間経っていなかったと思しき子猫たちだった。拾われて一旦回復しかけたように思われた子猫たちが動かなくなり、冷たくなる。もう20年ほど前の話であるらしいが、何時間も二人の手で包み、温めようとしたのだという。
 細かな描写、心のうちの悔しさも、あからさまに表現しないままにも、読者にはぐいぐいと迫ってくるものがある。それをただの感情ではなく、先にも行言ったように、思想の中でなんとか乗り越えようとする。決定的な言葉はここには挙げないが、たとえば「過去は、在ることをやめたことがない」というような言葉に救いを求めようとすらする。
 その思想がすべてを解決できるとは考えていない。だが、この辛さから歩き始める二は、何か飛び越えていく力が必要ではないか。ドゥルーズでもアウグスティヌスでも連れてきたらいい。
 表題の「猫がこなくなった」は、猫好きの高平君の話のことである。庭にやってくる地域猫が来なくなったということで悩んでいる。その話を聞く中で、著者は、猫の染色体の話やら、猫にありがちな、だが飼ってよく観察しないと気づかないようなことを、文章の中で次々と押してくる。なんとか猫を探そうとする高平君だったが、最後にはその飼い主を知ることとなる。
 私もこの地域猫というものが庭に出入りしていたから、気持ちは分からないでもない。ただ私は、来なくなればそれはそれでいいのだというお気楽さであったが、高平君のように悩んだり探したりするようなことはなかった。やはりこの探す気持ちというのは、ただならぬものを感じるのだが、それよりも私のほうがドライだったのだろうか。
 猫は不思議だ。人が自分の意志で決めたようなことを、いとも簡単に破壊してしまう。どんな人の格率も、一瞬にして台無しにしてしまいうる、それが猫である。人の理性など、嘲笑うかのように、だが何ら意図もなく、のうのうと過ごしている。
 必ずしも猫だけの話ではない。時折哲学者の言葉が重ねられてくるところが、愉快に感じる人と、うっとうしいと感じる人とがいるかと思うが、ある程度その道に通じている人にとってはずいぶんと面白いと感じるのではないだろうか。細かな描写を楽しむ思いがあれば、味わいどころは多々ある。ただやはり、猫が好きでなければ、この著者の作品は楽しくないだろう、という気はする。




Takapan
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