本

『根っからの悪人っているの?』

ホンとの本

『根っからの悪人っているの?』
坂上香
創元社
\1600+
2023.10.

 「あいだで考える」というシリーズが刊行されて、質の良い問いかけがなされている。「10代以上すべての人のための人文書のシリーズ」という触れこみである。そこでは「解答」を出すことはしない。問いかけるのである。読者は、答えを求めるのではない。そこから読者自身が、考え始めるのである。
 今回の話題は、正にタイトル通りである。その辺り、伝えることについてはストレートである。著者は、テレビディレクターから、映画監督へと進んだ人。2019年作の映画「プリズン・サークル」を契機として、その後日談に近いような形で、本書が成立した。それはドキュメンタリー映画である。受刑者を取材して、当人をドキュメンタリーの対象として撮影してできた。その許可を得るためだけに何年もの時間を費やしたという。それはそうだろう。また、協力してくれる受刑者がいたというのも、この監督の誠実さと熱意の故なのであろう。
 本書に関心を向ける。10代の若者を集め、映画に関わった人をゲストとして呼び、テーマに沿って話を聞き、また意見を言う。加害者と被害者というのがテーマである。こうした対話を5回に分けて行い、いわば専門の立場としての著者がファシリテーターとなり、場の雰囲気もつくりながら、それぞれの正直な意見を促してゆく。
 重いテーマである。犯罪を行い、受刑した人が呼ばれ、刑務所の様子も語られる。そこには、門外漢がドラマや映画で知るものとはまた違う生々しさがある。まして10代の若者たちは、新鮮な驚きに見舞われる。
 正直、前半は私は本書に読みづらさを覚えた。「そうですね」「はい」「そんな感じです」「うん」といった、放たれた言葉そのものが文字になっている。臨場感はある。が、読み物としては、少々間延びもするし、通常の読み方の変換を迫られるのである。
 気の毒な生い立ちというのが表に出てくるのは、当然である。最初からは、その加害者サイドでの取材があるわけだし、加害者にも背景がある、ということを知るのには非常によい視点が投げかけられる。だがそれを同情のために用いるというのは、決してよいことではない。もちろん本書は、そのバランスがうまく保たれている。やはり一度は、加害者の背景や、社会のもたらすもの、ということについて私たちは考えなければならない。犯罪がすべて自己責任であるのかどうか、という点は、考慮のポイントである。
 しかし、加害が認められるということには、なるはずがない。本書のテーマは、タイトルの通りであって、悪人は根本的に元から悪人なのであるか、というようなものであろう。この問いかけがまず、そうではない、という雰囲気をつくりだしているのは当然である。それでもなお、加害者が簡単に許されるわけではないであろう。
 社会的にそれを抑止するという視点は本書にはないようであったから、犯罪論を展開するわけではないようだ。ただただ、ルポルタージュのように、事実にしっかりとカメラを向けるのが映画だとすれば、本書はそれをインタビューとして実現するというものであるだろう。
 そのように見つめていたら、最後のゲストで、私の気持ちが大きく変わった。西鉄バスジャック事件の被害者が呼ばれたのである。つまりそこまでは加害者のゲストであったが、被害者が登場したのである。重症を負い、また共にいた人が刺殺されたという体験の方が、そこに現れたのである。
 この方は、マスコミにもいろいろ扱われたようだが、そのために一度は沈黙するようにもなり、しかしまた改めて語るようにもなってきたという。その辺りの経緯も、ここで語られているので、関心をお持ちの方は、ぜひお読み戴きたい。
 決して普通には報道されない、事件の実況が語られ、息を呑む迫力があった。加害者の対談のときには、さすがに自分のした生々しい様子を若者に露呈はしなかったが、被害者は、ありのままに語ってくれていた。本当に、痛々しいほどの現場の様子であった。
 事件は2000年5月に起こった。福岡が舞台であっただけに、どうなることかと案じながら、解決を待っていたのを覚えている。亡くなった方のことも、よく報道されていた。ここで語ってくれた被害者の語る様子は、ぜひ本書で確認して戴きたい。現場を知る人だからこその捉え方なのだろうとは思うが、私の想定を超えたものがあった。時間が経っているせいもあるかもしれないが、ともすればあまりに冷静で、感情を無くしているようなふうに見えないこともない。だが、特別な体験をした人は、やはり、しない者からは分からないことを知っているのだ。戦争体験は人間にとり非常に大きいとも言い、特に戦地にいた人の精神がやられるということもよく聞く。だから、体験のない者が憶測で決めつけるようなことは、してはならない、というよりも、できないということなのだ。
 この方は、少年のことを冷静に見つめ、また少年にある意味で同情するような方向で見ている思いがあったようである。少年への関心も強く、まず普通はあり得ないことだが、被害者としてその加害者の少年との面会を複数回行っている。書簡も受けており、少年からの信頼も受けているようである。そうして、「子どもの環境」ということについていろいろ考え、発言もしている。ただ、少年のことをゆるしてはいない、と言う。
 このバランスが、やはり経験者のみぞが感じることであるような気がする。キリスト教は「ゆるし」の宗教である。口では言える。実際に信じられないようなゆるしを口にする人もいる。あるいは逆に、想像の中でゆるせないだろう、などとも言う。私もどうだか分からないと思う。ただ、これだけその少年のために心を配ってみても、そして傍から見れば、すでにゆるしているようにしか見えない姿勢を示していても、ゆるしてはいない、という言葉がきっぱりと出てくるのである。いったい聖書のいう「ゆるし」とはどういうことなのだろうか。この方の発言は、それを考えるための、ひとつの重要なヒントになるのではないだろうか。
 若者たちから零れてくる言葉に、実はこの方自身、はっとさせられる場面が本書に載せられている。私たちは「言語化する」ことにおいて、悩みもするし、脱出する道も与えられる。その方は、言語化してもらえた、と思ったのだ。それは、解決そのものにはならないかもしれないが、ふっと外から光が射し込んできたことを確信する機会を与える。言語化するというのは、非常に大切なことなのだ。神は「ことば」である、というのは、非常に深いことなのである。
 本書は、一定の結論を主張するというものではない。だが、もちろん方向性は定まっている。末尾に若者たちの感想を訊くところがあるのだが、「根っからの悪人っているの?」という問いに対しては、「いない」という断定をしているとは言えない。だが、「いない」と答える自分というのがそこにいることは、口にしている。それでいて、現実にそう言われている人がいたときに、そこに対話を始めたい、という解決が必要であることを認識することとなる。この、実践的な解決への方向性にこそ、問いの意義がある。問いを立てることの重要性を哲学は提示する場合があるが、問いに応えてしまうのではなく、そこから対話をしていこう、という実践的な行動が促されるというように、その都度異なる結果を生むかもしれないけれども、実に有意義な道が、そこにあることに気づかされたのであった。




Takapan
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