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『ねじ子が精神疾患に出会ったときに考えていることをまとめてみた』

ホンとの本

『ねじ子が精神疾患に出会ったときに考えていることをまとめてみた』
森皆ねじ子
照林社
\2200+
2020.4.

 ねじ子。ナース分野ではかなり有名なはずである。ナースの手技について、実に現場に即したアドバイスを次々と出版している。そこに必要なのは、文章による理論ではない。必ずしも写真が的確だとも思えない。イラストである。そして、手書きのアドバイスである。隣で先輩が、ここはこうだよ、と絵を描きながら教えてくれているような臨場感がある。
 ナースの妻が何冊かもっている。だが、今回は精神科である。妻にはとりあえず関係がない。しかし私は大いに関心をもった。買ってもいいだろうか。誕生日プレゼントのようにそれを私が買ってもらい、レジにもっていった。そのとき、カードのポイントが貯まっていて、それでちょうど買えると分かったので、ポイントで手に入れたという具合である。
 人間を、どこかひとつのメカニズムとして対応できる、内科や外科の奥の場面とは異なり、精神科は、決してメカニズムではない心というものを扱う。そのため、始まりからしてややこれまでと趣が違ったが、とくに最後のしめくくりは、必ず読んでもらいたいと思った。できればもう最初に読んでもよいと思う。そこには、少しばかり精神科についての本を読んだからといって、分かったつもりになり、当事者に無責任な対応をしてくれるな、というきつい戒めであった。実際、少しばかり囓った人が投げかけた言葉のために、患者が命を絶つことすら大いにありうるのである。それが精神医療というものである。
 そのため、本書は随所で、中途半端な体裁作りなどしていない。前書きにあたるところから、「医者の世界は……師弟制度です」と始まり、「情報が最新のものではなくなっている場合」があることなどに注意書きが寄せられている。
 本書は、心の病とは何かという問いかけから、統合失調症、躁うつ病、さらにそのうちうつ病に絞った対応がとられると、神経症、それからパーソナリティ障害が幾種類から続く。これらはどれも、コマ漫画のようなものも含めて、状況がダイナミックに伝わってくる「激しさ」がある。続いて子どもの精神の世界がまた切ない。子どもであるだけになおさら、本人には判断基準すらないことが多いのだ。それは治療というよりも、教育であるという考え方には、悲しみを覚えつつ肯くしかなかった。最後は依存症の世界が示され、そこには読者も、それまでは自分のことではないと思ったかもしれないが、いまや他人事とは思えなくなるような要素も含まれているようにも感じる。
 それにしても、自分でその病に気づかない限り、自己意識自体が病んでいるとなれば、治しようがないという場合もありうる精神医療は厳しいものがある。宗教の世界でも「洗脳」というのがあるが、これは傍から見てどう考えても洗脳状態にあったとしても、当人が自分の意志だと主張すると、法的に動けないという場合があるわけで、逆にそれを周囲がどうとでもできるという社会にしてしまうと、これはかつての人権無視の世の中を肯定することになってしまう虞もあるわけだ。だから、ここで治療が必要であるという基準は、「本人または周囲の人が、困っていること」という捉え方を提示している。症例がどうだからどうというのではなく、誰かが困っていてそれが修正できないような状況にあるならば、その発信元である人に精神的な問題があるものとして治療を開始するというのである。
 ただ、本書は医療の視点をきちんと伝える。これはこれで使命だ。道徳や宗教の問題を論じるつもりはないし、それが対処するのはまた落ち着いてからでいい。たとえば精神科ではなくても、一般のクリニックでも、様子がおかしい人が訪れることは十分ありうる。危ない状態の人が、精神科にしか現れないというきまりはないのだ。その場合どのような対処をすべきなのか、いや、どのように対処してはいけないのか、これは必要な措置である。本書はその意味で、やはり医療関係者の現場に即したアドバイスをしてくれていると考えたい。もちろん、薬の知識も教えてくれる。どの薬がどのように有効であるのか、またどうして効くのか分からないにしても処方されているなど、あるいは危険性がどのくらいあるのかといった具合に、注意を促してくれる。ずっと呑み続けなければならない薬がある。また、本人がその薬を呑んでいることを意識させないためにこっそり与えるというような周囲の配慮が命取りになる場合もあるのだという。本人が知らずにその薬を口にしていながら酒を飲むと死ぬ、というような場合があるのだそうだ。こうした点は、周囲の者が心得ていなければならない知識であるともいえよう。
 キリスト教会の牧師というのは、メンタルを壊されることがしばしばあるのだという。アメリカにはそのための専門病院すらあるのだという。しかし、日本ではそれでは経営が成り立つまい。心を病むことは十部予想されるにも関わらず、落ち込むのは信仰が足らないからだ、というような精神論すらまかり通るのがおそらく伝統である。私の出会った経験のはないでも、その手の人は実際にいた。これは牧会活動の中で病んだというよりも、元来そのような人が、ちやほやされて牧師という職業に就いた、といったほうが適当であろうと思う。しかし素直な良い信徒たちは、そのような「おかしさ」に気づかない。結局精神科にはかかっていないのではないかと思うが、一般医院に睡眠薬を処方してもらっているらしい。だがその様子は、医院の関係者から見れば明らかに、変な人なのだという。
 それでも、私たちは専門家ではないのだから、むやみに病気を指摘するようなことはできない。それは本書が厳しく戒めているとおりである。ただ、どういう態度で接したらよいのか、それは学べる。パーソナリティ障害については、かなり具体的に生活面での異様な有様がマンガで示されているのだ。これはギャグになりかねないような姿ではあっても、実に深刻な現実なのである。
 知ることは大切である。しかしそれを使うのは弁えなければならない。その境界線が守れるならば、本書は大いに人を知る助けになるだろう。そうすれば、何かと誤解や無理な仕打ちをしたりさせたりしなくて済むようになるかもしれない。また、これが肝腎なことだが、私が正常であの人が異常だ、というような見方だけは現に慎まなければならない基本である。これがすべてのスタートにある。それだけは確かだ。




Takapan
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