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『ねじまき鳥クロニクル』(第1部・第2部・第3部)

ホンとの本

『『ねじまき鳥クロニクル』(第1部・第2部・第3部)
村上春樹
新潮文庫
\630,552,705+
1997.10.  

 価格は発行された時期により変化するので、とりあえず私が入手した段階での価格として目安にして戴きたい。古書扱いできっと安く入手できるであろう。
 2020年にこの物語は舞台化された。舞台作品についてはまるで知らないが、よくぞこれを舞台で演ずるような企画を持ち出したものだと驚く。確かに場面としてはそれほど多くはないと言えそうだが、この長さと揺れ動きを一定の舞台の範囲で収めるというのは不可能のように思えてならない。
 村上春樹の長編としては8作目であるという。主人公の男性目線で淡々と見たこと聞いたこと思ったことをすべて言葉にし尽くそうという勢いで描いていくのはいつもの調子だが、当初から謎がいくつも連ねられ、いっそう複雑に登場人物が絡んできて、あらゆる筋道の糸がぐるぐるに絡んでしまう中で物語は進む。
 猫が消え、妻のクミコが失踪することで、物語は大きく動く。そのあたりまでは、村上独特のエロスの描写がいくつかあり、またいつもの調子なのかと思わせる面もあるが、この失踪以降、それが影を潜める。そして、間宮中尉が現れたことで、小説はとたんに異世界に入る。戦争の暴力を描くのである。舞台はノモンハン事件。ついぞ描かれたことのないような(もちろん何人か注目して研究したり描いたりはしている)、日本とソ連との(満州が日本の傀儡だという前提での)国境衝突のときのことについてよく調べ、文学者としての想像力を補って描いている。その酷さは、想像力などなかったほうがよかったと思えるほどのグロさもある。
 クミコの兄綿谷ノボルと、主人公岡田トオルとが対立しながら物語は進む。このベースは変わらない。もちろんいまその関係や出来事をご紹介する訳にはゆかないのでいくらここでどのように記しても、お読みになったことのない方には何がなんだか分からないのだが、とにかく岡田トオルの一人語りで話は展開していく。時折、証言のような発言や、手紙という形で、別の視点が入る。先の間宮中尉の戦争体験もそうだが、トオルと関わる笠原メイという若い風変わりな高校生年代の女の子が、これまた大きな鍵を握る。舞台の宣伝では、トオルとこのメイとが主役というような扱いを受けていた。古い涸れ井戸に入ってみるあたり、どうしてだろうという気がするのだが、トオルはこの井戸の底で二度、死にかける。とても黙想をするような場所ではないはずなのだ。しかし、そこでのシーンは、妙に説得力があり、美しい。
 それにしても、それぞれの場面で人物のキャラとしての際立ち方はやはり大したもので、ぞの人物も、その人はそれでなければならない、というだけの独自性を輝かせながら存在している。人はそれぞれオンリーワンなのだということを、こんなにも証拠立てるような描き方はないかもしれないというほどだ。だから、小説でありがちな、「これ誰だっけ?」と迷ったり、人物間系を混同してしまったりするようなことは、考えられない。その描きぶりはさすがである。そして、小説としては不要な描写も非常に多いのだが、その無駄な描写故に伝わってくる臨場感というものは半端ない。小説を読むのは苦手な私なのだが、それぞれの場面が、どんな場所でどんなふうに見えているのか、ということがありありと浮かんでくる。この能力というのが、村上春樹の魅力の一つなのではないかとも思う。見たものを悉く文字にしていくというふうに近いが、しかし節度がある。それでいて、ちゃんと伝えきっているのである。
 しかも、その上で、ここがキーだと思えるような描写が、読者の心にしっかりと据えられていくというのも、魔法じみている。不思議な作品だ。
 ストーリーとしては、決して簡単ではない。落としどころ、落ち着きどころがこれでよかったのか疑問はある。なるほどそうか、とミステリー小説にとって必要な要素は、あまりないように思われる。で、結局それは何だったの? あのことはどうなったの? あの話は何のためにあったの? そんなふうに、何も解決されないままにぷつりと切られてしまい、読後感は実に不安である。ただ、新しい出発のようなものがわずかな希望として残るという意味では、決して悪い気はしないものである。
 だから、とにかく主人公と一緒にドキドキハラハラしたいというのならば、もってこいのアトラクションである。円満な解決や、ストンと落ちるというものを目指すだけの読書であれば、あまりお薦めしない。むしろ、何かしら不条理なままに――そう、この現実の私たちの生活において出会うものについても、それが安定した落ち着きどころをもっているわけではないのだ――、私たちの日常が進んでいくのと同じように、トオルと一緒に困った男の体験を共有してみようとするなら、十分楽しめることは間違いない。




Takapan
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