本

『なぜ君は笑顔でいられたの?』

ホンとの本

『なぜ君は笑顔でいられたの?』
「福本峻平の本」制作委員会
いのちのことば社 フォレストブックス
\1600+
2022.11.

 副題に「福本峻平 神と人とに愛されたその生涯」と書かれ、表紙にある写真は、車椅子で喉にチューブを入れた男性の写真がついている。これが福本峻平さんである。  とある関連でこの人のことを知った縁で、手に取ることとなった。
 キリスト者が、困難な環境に置かれた中で、神を信じて乗り越えていった。病にも拘わらず喜びの人生を送り天に召された。このような話は多々あるし、本も多数出版されている。キリスト教書店からすれば、難しい神学理論書よりは、よほど売れ筋となり得るものであり、あわよくば一般にも読まれていく可能性を秘めたものと考えるものであろう。感動した周囲の人が、なんとかその美しい信仰者の生涯を遺したい、知ってほしい、ということで本を作ることも、よくあることである。
 とにかくその数が多い。私は、申し訳ないが、そのすべてを手にすることができない。敬意を表しつつも、そのタイプの本については、良い読者とは言えないのである。その私が本書について読むに至った背景については、話せば長い長いものになるので、すべて割愛せざるを得ない。ただ、福本峻平さんご本人に何らかの関係のある人が介在していたことだけは、触れておいてもよいだろうかと思う。
 さて、相変わらず前置きが長いので、皆さまも辟易しているかと思うが、本書のタイプについては、ここまでですでにお話しできただろうかとは思う。それでも、もう少しこの人の生涯をご紹介することはお許し戴こう。
 峻平さんは、中学のときに体に異変を覚え、原因不明の中で若干の不自由な生活を送ることになる。ミッションスクールであったために教会訪問とレポートが課せられるわけだが、その教会での活動が楽しくなる。真面目な性格であることも関係したのか、聖書の言葉を自分の問題として受け止めるようになり、高校在学中に洗礼を受ける。但し、体のほうはさらに不自由を覚えるようになり、大学進学で岐路に立たされることになる。結局、フォローを豊かにしてくれることの期待できる大学に進学することとなり、そこでまた多くの人と、大学当局との助けを受けて学ぶことができた。
 しかし、卒業後はさらに動けないようになり、それでも働く道が与えられ、教会での仕事をするなどに励むが、いっそう病状は悪くなり、口から栄養をとることができなくなる。いよいよ職業としては苦しくなっていくが、その教会のグループでの、障がい者のための集いで証しをするなど活躍された。
 さしあたり動けないような体ではないし、好き勝手なことができる状態である私が、意のままに体を使えなく苦しい目に遭っている方のことを、とやかく言うべきものではない。まして、当事者でもない者が、勝手な決めつけをするべきではない、ということは承知している。当人の苦しみや辛さのうち、おまえが何を知っているというのか、愚か者め、と言われることは覚悟の上である。その通りである。だが、素直に思ったことを言うことを、この場だけとして認めて戴きたい。
 私は、この方は不幸であるというよりも、幸福であったのではないか、と思っている。もちろん、キリスト者にとり、病苦が不幸であるという結びつきをするべきではなく、神と人に愛されて幸せであったことを、この本が描き出そうとしている、という捉え方を否むつもりはない。しかし、どうしても世間では、病気で若くして亡くなったことは不幸であった、という前提から入るのではないかと思われる。それにも拘わらず、信仰は勝利する、という道筋を表そうとしたのが本書だ、という意図があるように感じられてならない。しかし私は、その闘病生活がずいぶんと恵まれていて幸福であったように、どうしても見えると思ったのである。
 本書は、関係者の全面的な協力を基に、筆記の才覚のある教会関係者が文章化した形で制作された。文章は見事である。写真やエピソードも、家族や友人の十分な検証の中でなされていて、どこにも嘘はないだろうと思われる。だとすると、この方と家族には、経済的には非常に恵まれた中にあったことは確実である。
 率直に言って、私の収入では、足元にも及ばないようなことが、何の問題もなくなされているだけなのである。一つひとつ挙げることはしないが、医療費はもちろんのこと、小さなころからヴァイオリンに励み、私立の中高、そして大学に進むが、経済的な苦労話は一切出てこない。大学に通うために必要な介助の故に母親が家を離れ、新しく部屋を借りるのも当たり前にできるし、その後家に戻れば家を様々に大改造することが、簡単にできている。コミュニケーションが苦しくなると、最新の機材がぽんと与えられる。
 もちろん、実際はいろいろあったのかもしれないが、少なくとも本書の中には、経済的な問題はひとかけらも出てこない。教会も、彼のためにかなり負担を強いられている様子が見てとれるが、譲歩的にでも問題点を臭わせるようなことは微塵もなく、すべてがいとも簡単に用意されている。私は途中から、羨ましくさえなった。
 病気の苦しさと、かけがえのない命の危険ということでの不安その他、繰り返すが、私がとやかく言うことは全くできないのであり、言うつもりもないのである。誤解はして戴きたくない。しかし、本書の記述の通りであるのならば、すべてにわたり、彼は恵まれていたのである。人間関係にしても、とにかくすばらしい人物に囲まれ、理解され、協力を受け、支えられている。
 純粋な信仰、という言葉は私は好きではないが、本書を見る限り、彼は実に美しい信仰をもち、貫いている。タイトルにある「笑顔」の意味などについてここで全部記すことはしないが、それもまた、信仰をストレートに生きるとき、信仰の花が咲くひとつの現れ方であることは間違いない。
 キリスト教信仰がすばらしい、ということを示すための本の企画であったとは思う。それはそれでよいのだが、だからまた、美しい話に傾きすぎたのだとすれば、上のような印象を与えることになってよかったのかどうか、考える余地はあるのではないだろうか。
 献身的な母親に対して、初めのほうで「仕事漬け」と称された父親は、病気と闘う生々しい生活の中には、殆ど登場しない。しかし、「あとがき」には、四六時中献身的に介護していた母親は、「お母さん」と一度しか登場しない(「ご両親」というのもある)のに対して、父親は、その協力について四度も実名が挙げられている。これは不自然である。本文の最後に、峻平さんに続いて母親と祖父母が洗礼を受けたことは記されているが、父親の名は書かれていない。それが理由なのだろうか。
 ひとの生きた証しを遺したい。周囲の人々のその思いの結晶である。それだけ愛されたひとであったことは確かである。だから、副題に偽りはない。もちろん、神もそうであった、とするのが、この信仰のひとつの現れである。こうした信仰に支えられて、やはり峻平さんは幸せだったと言ってよいのではないか、と私は思っている。




Takapan
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