本

『なぜ私だけが苦しむのか』

ホンとの本

『なぜ私だけが苦しむのか』
H.S.クシュナー
斎藤武訳
岩波書店
\1200+
1998.7.

 入手したのは、同時代ライブラリー版である。後に岩波現代文庫として発刊されている。  邦訳版としての訳語であるが、なかなか味のある題である。また「現代のヨブ記」というサブタイトルが付けられている。
 息子を病で失った著者は、うちひしがれていたことだろう。そうした自分を見つめ、より多くの人を力づける言葉を紡いでいった。
 yukkie_cervezaさんという方が、Amazonの本書の書評に次のように投稿していた。
「著者はアメリカ人のラビ。その息子は生まれた時から早老症という病に冒されていて、14歳という若さでこの世を去りました。
 善良であることを心がけてきた自分になぜこれほどの悲しみが訪れるのか。
 神はなぜ私をかくも苦しめるのか。
 キリスト教徒やユダヤ教徒でなくとも自分の不幸を神からの理不尽な罰と見なしたくなるような経験を一度ならず味わった人はいるでしょう。
 この本はそんな読者に向けておよそ30年前に書かれました。」
 投稿はまだ続くのでだが、本書の内容は、これで十分伝わることだろう。
 日本人は2011年、神よどうして、と思うような出来事を自国に目撃した。メディアが発達するこの世の中であるから、写真や映像で、幾多のおぞましい自然の驚異を目撃することとなった。そこには、自分たちが築いた文明ですら、自分たちを破滅に追い込むということを如実に示す姿が映し出されてもいた。
 キリスト教のみならず、宗教者はそこに駆けつけた。しばし言葉もなく、ただ体を動かして、人を助けることに終始した。やがて空を見上げたとき、おそら誰もがく一様に叫んだ。神よ、なぜこのようなことになったのですか。彼らが何をしたのですか、と。中には、これは神の裁きだなどと嘯く人もいた。しかしそのような発言は、むしろ蔑まれるものにさえなった。真摯に神に叫ぶ者には、超越者からの呼びかけがあったことだろう。それとも、いまなお沈黙のままであるとでも言うのだろうか。
 なぜ私だけが苦しむのか。本書は、当初は売れることを期待してのものではなかったそうだが、多くの人の共感を得て、爆発的に売れ、読まれたという。それはそうだろう。こんなに心のこもった祈りのような言葉に、感動を覚えないはずがない。
 この本は、もちろん、ヨブ記とテーマが共通する。サブタイトルの通りである。ユダヤ教の視点で、しかも実体験を伴う知恵者がヨブ記を見るとき、ヨブが至らぬ者で神がすばらしい、というふうに読むものではない、ということを教えられる。もしそうなら、神がこの世の悪や不幸をも生んだ原因であり責任者であることになってしまいかねないであろう。著者は、これを回避するために、神はこの理不尽な不幸を止める「ことができなかった」のだ、と言う。そしてそのような神を、最後には赦すという視点すらもたらされる。クリスチャンがここだけ聞けば、なんてバカな、と思うかもしれない。けれども、災いに遭った人にただ寄り添い、その言葉を聞く、そこには、正義は通されなかったかもしれないが、愛があるのだ、と言う。祈りが奇蹟を呼ぴはしなかったかもしれないけれども、祈りは孤独でないことを教えてくれることがある、と慰める。
 邦訳は最初1985年に出版された。その前からアメリカで、そして多くの国で読まれ、ターミナルケアに携わる人の必読書だともされるようになった本である。
 震災に襲われた人にとり、特定の記念日だけがある訳ではない。自分を責めたりする精神的なもののほかに、実生活として苦難が伴い、それは日々刻々と攻撃してくる。希望がもてず、将来に不安しかない。毎日が、「主よどうして」という問いの中にある。忘れようと思えば忘れていられる傍観者の立場にある多くの人にも、何かしらそのような問題はあるとは思うが、より、天災や人災に苦しみ続けている人のことを思っていたい。そして、できるなら、本書のような知恵が伝えられるのであるなら、とも願う。




Takapan
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