本

『夏物語』

ホンとの本

『夏物語』
川上未映子/文藝春秋/\1800+/2019.7.

 まずはお断りを。私はこれを『文学界』で読んだ。2019年3月号と4月号に連載されたのだ。さらに、8月号にはこれについてのレスポンスというか、他の作家の声と、著者へのインタビューが特集されており、これも読んだ。
 何かのきっかけに、読んでみたいと珍しく文学への興味をもった故だった。
 徹頭徹尾、女性の視点である。それが必ずしも違和感を覚えるということは、私にはない。それは、私が女性心理を理解している、という意味ではない。むしろ、そこまでか、と愕然としたほどである。いや、気づいていないはずはなかった。そういうことを訴えられていたに違いなかったのを、ようやく知ったという言い方が少し真実に近いだろうか。
 夏物語というのは、夏目夏子という芸名のような名の女性の物語であるという点と、夏を中心に物語が展開するという点とでつながるものがあるように見える。姉巻子とその娘緑子との関わりから始まるが、この母娘がまたひとくせもふたくせもあり、豊胸術を目論む母と、生まれてきたことと自身とのバランスにこだわりを懐き、母巻子と口を利かなくなった娘とが、大阪から夏子を訪ねて夏子に問題提起をする。夏子は小説を志しているが仕事としてそれが決してうまくいっているわけでなく、ささやかな形で生計を立てている程度。若いころに男性とつきあった経験があるが、それがまるでトラウマのように、性的な関係が考えられなくなっていた。
 しかし、AID(非配偶者間人工授精)との関わりが生まれたとき、夏子の世界観が変化を受ける。このAIDで生まれた逢沢という男性と出会い、その恋人善百合子もまた、性的虐待を受けてきた過去をもつ中で、生まれてこなかったほうがよかったという逆説を懐きつつ生きているという様を知ることで、自分の中の何かが動かされていく。出産というのは、親の身勝手な思いで勝手に子どもを生みだすことでしかないのかどうか、その問いかけは、必ずしも論理的になしていくのではない。だがただの気分で片付けようとも思わない。そんな中で、30代という微妙な時を過ごしていきつつ、やがて夏子は、自分の子に「会いたい」という思いが芽生えてくるのを覚え始めるのである。
 こうして、年齢的に出産可能な限界ともいえるまでの十年間余りを、物語は辿っていく。作者の文体は、原稿用紙を舐め尽くすように、すべてのマスを埋めようと描いていく。夏子の心の中を、余すところなく描き出すが、決してくどいとは感じられない。時折見える風景は心の中のメタファーともなるし、読者の心の中への問いかけや、打ち込む楔ともなる。決して社会問題として描こうとしているわけではないが、それへも関わっていく可能性を秘めつつ、焦点は命を生みだすという点からぶれないでいる。
 気がつけば生きていた、これが誰しもの実感であろう。だがその元を辿れば、親が自分を生みだしたことは確実である。だが、AIDの場合、遺伝子として現にここにある自分は、育ての親のものではないわけで、また自分というアイデンティティを生んだ遺伝子の主は、分からず終いである。いわば自分のルーツを知ることができないという中にある。そのような自分が、新たな命を生みだすとき、その生まれた子が親をどう捉えるのか、その関わりは一筋縄ではいかない感情と、実存的な問いとを絡めていくことになるだろう。
 結婚や出産というものを避ける傾向が文明国に強い。社会的なせいにする場合もあるが、そんなに事は単純ではないだろう。もっと実存的な問いがあって、だが当人すらそれに気づかずに、弱腰になっているような面があるかもしれない。本作には男性は基本的に二人しか登場しない。後半で重要な鍵を握る、このAID生まれの逢沢と、もうひとり、精子提供者として名乗りを挙げた恩田という男である。後者のえげつなさは、作品を読むと誰もが味わうことであろう。それを露骨に描いた作者の度胸というものをも感じるが、男として目を背けたくなるようなこの恩田の考えは、実は削ぎ落としていけば自分の中にあるものとさして変わらないということに、気づかされるのではないだろうかと思う。いや、それを感じなければならない。そして、夏子のように女として付属品のように男の言いなりになることとは距離を置いた、ひとりの人間として、ひとりの人間を産むこと、その新たな人間と「会いたい」という素朴な思いをもつ存在を、パートナーのいる男性は、そのパートナーの中に見出すことができるかどうか、が問われているように思われてならない。
 新たな人間との出会いは、もしかすると、よく言われた「本当の自分」との出会いと重なるものがあるかもしれないし、与えられた自分という受動的な存在感しかもてなかった人間が、新創造を何かしら期待する心情と関わってくるかもしれない。それが、傲慢な形で突き進むようなことを、作者は求めているのではないはずだ。ここに神という視点は殆ど現れないが、端的に神を置いて説明してしまうことも、非誠実であると考えてのことではないかと思われる。欲しいのは教義や、納得できる説明ではない。自分が生きているということの意味でもあり、人が生きるということの、根源的な基盤の確かさでもあるのではないか。
 感じ方や捉え方は、ひとそれぞれであっていい。作者の意図を私は外しているのだろうとも思う。だが、それが文学である。論文ではないし、ただのエッセイでもない。一人ひとりが真摯に受けとめて、自分の問題として、読むその時間をその問題に捧げることと、可能ならば読んだ後も、その問いを咀嚼していくこと、そして自分の人生を大切にしていくこと、そんなものをもたらすことができるなら、文学とはなんと尊いものなのだろうと思う。国語教育から、また大学の現場から、文学というものをなんとか弱めて消し去ろうとするような政治の動きこそ、ひとが生きる基盤を考えさせないようにする、AIDの悪い形での繁栄をもたらすものではないか、とまで思うようになった私である。




Takapan
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