本

『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』

ホンとの本

『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』
大西泰斗;ポール・マクベイ
研究社
\1500+
2005.11.

 学習参考書の類はこの欄では扱わないことを基本としていた。きりがないからでもあるし、長期的に入手できなかったり、役立たなかったりするからだ。もちろん、それを必要とするターゲットが狭すぎるケースが多いというのが一番の理由であろう。だが中には名著といわれるものもあるし、広範囲に役立ちそうなものも、ないわけではない。本書は、英語について基本から感覚を身につけるという上で、たいそう効果的ではなかろうかと思ったので取り扱ってみることにする。
 小中学生に英語を教える機会がある。語学はひたすら暗誦するということが基本だろうと思う。そこから自分で掴んでいくというのが常道であるだろうと考える。だが、語学を学ぶのは文化を知ることでもある。できるならば、言葉の成り立ちについて言語化できるほうが望ましい。
 しかし、学校などで習う文法というのは、「〜のときは……」式に、まるで数学の公式でも覚えるかのように、どこか方法のように覚えることが多く、それが何故であるかについては扱えないのが普通である。それが文化の相違の正体である、というあたりのことを、英語の教師が教えてくれたら、それはなかなか恵まれているかもしれない。
 本書のターゲットは、英語の理解についてどのあたりにいる人なのだろう。中学生でも少し学習の進んだ人ならば大方分かるだろうか。ベストは高校生だろうかと思う。結局本書も、最後は過去完了や仮定法に行き着くからだ。語彙的にも文法的にも、そのあたりが適しているだろうとは思う。
 もちろん、これから海外に行くというために英語を学び直している大人の方々にも、もってこいだろうと思う。いまは自動翻訳機があるとは言いながら、見るもの聞くものをすべてスマホに頼る必要はないだろうから。
 しかし、これは私が現にそうだから、というわけでもあるが、英語を子どもたちに教える機会のある人に、一度は通ってほしいという気がしている。通り一遍の文法の説明なら、ちょっと英語を学んだ人になら鸚鵡返しのように説明ができるかと思うが、それを子どもたちに「感覚」としてプレゼントするためには、その「感覚」を言語化しなければならないからだ。
 本書は幾つかの章により、理解する感覚が方向づけられている。まずは「配置感覚」。語が並んでいるのは説明であることを、様々な例示と共に納得していくことになる。これに先立ち、主語やBE動詞についての基本的な理解を済ませることになっているが、このBE動詞は、並べている感覚なのだという説明は、現実のBE動詞の把握について、まことに的確なものだろうと思われる。存在を表すことがある動詞ではあるが、現実的には存在価値をもたないものとなっているのである。だからハイデガーがこれに注目して大喜びしたというような経緯があるのやもしれない。
 どうしてBE動詞とその他すべての動詞たる一般動詞という、全くつり合わない2種類に動詞が分かれているのだろうか。本書はそれを追究する目的ではないので詳しく背景を論じているようなことはないが、推測するに、本書でBE動詞を無視して、並べると説明であるということを示しているように、BE動詞は動詞という感覚なしに、繋辞ともいうが、ただ接続してつなぎとめるだけのものなのだろう。それに対して一般動詞は、この配置感覚の考え方からすると、並べて説明というのとは違う。一般動詞は、その後ろに力を及ぼす他動詞と、単なる動きだけを示す自動詞とに分かれるが、この2種類の働きをもっている。こちらが、動詞と呼ばれる語の働きの、本命なのだ。並べるのとは違う働きである。
 というふうなことを、著者に代わって説明を始めてもつまらないのだが、中身はこうしたかたい説明ではなく、実に楽しく説明が続いていく。喩えて言うなら、人気講師による予備校授業というところだ。
 これはシリーズのように、幾種類も同様の参考書が出ているので、本書は文の組み立てに徹している。そのため、to不定詞や動名詞などについては触れられていない。しかし高校の文法にある内容について多くの事柄が修められており、やはり高校生の強い味方となるであろうと思う。
 しかし、私もものの本や英語講座などで学んできたことが、決して間違っていないことがよく分かった。英語に未来形がないとか、過去形は過去という時間のためのものではなくて、遠く離れたものを表しているとか、もちろん高校生時分ではなく、ずっと後になってからであったが、知ったことが、ここで易しく教えられているのだった。逆に言うと、こうした英語の感覚や本質的な理解について、高校生でありながら学ぶことができる今の時代というのは、とてつもなくいいものだなあと驚くばかりである。細かく分析を続けた形で文法事項を増設するよりは、原則的な感覚で掴んでいくというのは、私は賛成である。もちろん、外国語として英語を学ぶ以上は、文法事項はなくすわけにはゆかないだろう。しかし、それを学ぶ上でも、底流にある感覚を知るというのは、すばらしいことだろうと思う。
 こうしたことは、英語ばかりでなく、様々な分野にも活かせる発想ではないか、という気がする。聖書についても、どうなのかしら、と考える愉しみができた。




Takapan
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