本

『なろうとして、なれない時』

ホンとの本

『なろうとして、なれない時』
上林順一郎
現代教養文庫
\680+
1989.12.

 やや古い香りがするが、私にとってはその心情がよく分かる。フォークもニューミュージックももはや懐メロである現代、この本は、そのような意味で私に迫るものがあった。
 ユーモアとペーソスに溢れた著者の語り口調は実にうまい。そして、愛の眼差しに満ちている。だがまた、同じ人間として、とても近くにいるような気がするのだが、それは考えてみればイエスもそのような「ひと」になったのだ。
 エッセイ集である。ただし内容は、礼拝説教を手際よくまとめたものからなる第一部と、教会が毎月発行している印刷物に綴った文章を集めた第二部から成る。本を読むという立場からすると、その由来にあまり気を払う必要はない。ただし前半は確かに、聖書が告げているという受け取り方をすることができるようなものとなっている。
 その最初のものが、本書の題となっている、「なろうとして、なれない時」である。ひとは何かになろうと欲し、なることを切に望む。けれども、聖書はどう言おうとするだろうか。聖書にも「なる」がたくさんある、と著者は言う。聖書の中の「なる」に注目する説教は私は初めて聞く。パウロが自ら、主の奴隷になる、と発信したところに、理想的な「なる」を見出すことができるかもしれない。
 これを冒頭に掲げ、本のタイトルにもしたことで、この本の指向がぼんやり分かるというものだろう。ユーモア溢れる著者の話には思わずくすりと笑う場面も多いのであるが、心の奥底にぐっと刺さってくる問いかけも多い。とくに私のように、自分に引きつけて自分の問題として聖書を理解したいという思いの強い者にとっては、随所で、教えられることが多い。
 ギリシア語の言葉の意味を読み取るところで、聖書の真意を明らかにしようとすることも多い。他方、漢字の意味や成り立ちを利用して話を聞きやすくするというのも著者の得意とするところで、興味深く聞くことができる。但し、それは聖書の解釈からするとよろしいことではない。これが暴走し、漢字にこじつけた聖書の意味を披露する人もいるが、それを漢字の本当の成り立ちでない、ということを弁えておかないと、デマを流すことになりかねない。聖書のメッセージは、漢字の成り立ちとは関係がない。たまたま類比的な構造をなしていることはあるというだけだ。しかし、説教の中でこれが出されると、日本人の心にスッと入るから不思議だ。
 ユーモアで笑わせ、心を開かせておいて、そこへ鋭い福音の刃が刺さってくる。ちょっと物騒な喩えであれば改めよう。そこへ福音の光が射しこんでくる。これなら、キリスト教の礼拝説教を初めて聞いたという人でも、何かしら心に残るものがある。もしかすると、その一回で、救いの言葉を受けることができるかもしれない。
 かつてよく語られた、「おとな」のメッセージである。さて、いまの若い世代に、こうした話がどのように響くのか、それも知りたいと思った。




Takapan
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