本

『難聴を生きる 音から隔てられて』

ホンとの本

『難聴を生きる 音から隔てられて』
宿谷辰夫編・宇田川芳江編
岩波新書2082
\940+
2025.9.

 『音から隔てられて―難聴者の声―』が出版されたのは1975年。これを継承するものが半世紀を経て出た。編者の一人が、かつてその本と出会って人生が変えられた経験をもつという。
 本書の前半は、とても痛い。難聴の立場にあった、あるいはなった人たちの短い体験談が並んでいる。一人の辛い人生を5頁くらいで綴らなければならないこと自体が、苦痛であるかもしれないとも思われる。否、量の問題ではない。その文字の背後に隠された、長い長い人生経験である。
 これらは一人ひとり異なる経験である。そして、難聴という環境についても、一人ひとり違う。その程度や原因についても、人の数だけ異なるような次第である。補聴器を使えば聞こえるのではないか、などと無責任に聴者が言うことがあるだろう。だが、それが何十万円もかかるということについてさえ、その聴者は知らないで言っているのである。
 また、体験的に言っても、理解者が周りにいるとは限らない。特に、ここで証言するのは特別に若い人たちであるわけではない。聴覚障害者についての理解が広くあった時代ではない。
 ただ、本書の対象はろう者とはまた異なる。ろう者には、ろう文化もある。手話を使う使わないというのは、ろう者の間でも様々あるが、難聴、特にしばしばある中途失聴者は、手話を知ることそのものがひとつの壁にもなるし、手話にまで至らない場合も少なくない。また、手話を文化として体得しているわけではなく、日本人が学校の授業で英語をなんとか覚えた、というようなレベルを超えることは難しいだろう。
 子どものときに失調したら、そもそも音というものを知らずに生きてきた、という人もいるだろう。だが亦、中には一定の音の記憶がある人もいる。そのとき、話す方はある程度他人とコミュニケーションが取れる場合もあるという。だが、聞こえないのは、聴者のルールの社会に投げ込まれたら厳しいものがある。聞こえているふりをして、やがて知られてしまう、というような体験談が幾つもあった。これは、私のような聴者でも、聞き返すのも悪いと思って聞いたふりをする、ということが実際あるのだから、難聴者に於いてはもっともっとあることだろう。また、いくらか補聴器でカバーしたとしても、会議で誰が発言しているか分からないというシチュエーションでは、参加できたことにならないかもしれない。そもそも、電話業務ができないということで、就職できないということも多かったわけである。
 そうした体験が、本の半分までを占めている。ここを読むだけでも、人の痛みや苦しみというものを初めて知ることになり得ると思う。
 後半は、もう少し理論的な話が続く。体験から帰納的に理解することも大切だが、演繹的に知解を進めることも必要だろう。「人権としての聞こえとコミュニケーション」は、人権、とくに自由の問題や、ユニバーサルデザインとアクセシビリティという、いまや世の中の常識となったことについて、改めて教えてくれる。否、よく知らないという人がいたら、絶好のアピールの場で或。「聞こえの仕組みと聴覚の補償」は、聴覚そのものについて、簡潔だが大変専門的な解説が展開されていた。とても勉強になった。補聴器の機能について、こんなに詳しく説明されているのを見たのは、私は初めてのような気がする。
 「新たなコミュニケーションの学習」は、このコミュニケーションがうまくゆかないということが、どれほど苦しいものなのか、体験談としてではなく、一般的なものとして強くぶつけてくる。周囲の人はどう接すればよいのだろう。そうした人に出会ったらどう対応するとよいのだろう。その心情への理解の入口だけでも、用意してもらいたいというわけだ。「聞こえに困っている人の支援」は、具体的な手法を教える。要約筆記についてもこれほど具体的ないろいろ説明してくれたものは、やはり知らない。また、テクノロジーの発展と応用が、こうした分野に将来的に使われることへの期待も覗かせてくれる。
 「聞こえの環境整備」らについては、補聴器や人工内耳など、聴覚への働きかけに関するものと、要約筆記や手話、字幕といった視覚的な働きかけについて分けて説き、聴者が気づかないことへの光を当ててくれているように感じた。
 最後に、「まとめに代えて」と題して、「聞こえに困っている人の暮らしやすい社会を求めて」というように、本書の概観と、特に難聴者運動の歴史について、簡単にではあるが、伝えてくれている。
 ようやく、理解が始まった、と言ったほうがよいかもしれない。聴覚障害は、外から見えない障害である。しかしまた、老化とともに遅う難聴をも含めると、相当の割合で、聴覚に不自由な人がいることが予想される。
 また、これは本書には全く書かれていないことではあるが、イヤホン生活をしている若い人たちの中には、現に難聴を煩っている人もいるというが、この生活が始まったのはいわば最近なので遭って、その影響が外に出てくるのは、何十年後かもしれないことを思うと、ある時期に、爆発的に難聴者が増える社会になる、という可能性を否定することはできないのではないか、と私は思うのだ。かなりの音量で、始終イヤホンをつけて何かを聞いている。本来耳というものは、傍で大きな音を聞くようにはできていない。聴覚に問題が起こらない、と考えるほうが不自然なのである。それに、そのような生活をするということは、他人とのコミュニケーションを阻むということと重なってくる。難聴者が、最も苦しいのは、そうしたコミュニケーションができないことだ、としばしば口にするのを知ると、いまのイヤホン生活が、何をもたらすかということについて、私はどうしても悲観的な予想をしてしまうのである。これは、本書とは直接関係のないことではあるが。




Takapan
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