本

『難解な本を読む技術』

ホンとの本

『難解な本を読む技術』
田明典
光文社新書406
\820+
2009.5.

 タイトルからして、そそるものがある。これは別の、読書に関する本が薦めていたので探して手に入れたものである。終わりのほうに、ラカンだのデリダだの、ドゥルーズにフーコーといった、難解とされる本の具体的な読み方が並んでいるが、これはもちろん仕上げであって、間違ってもここから見てはならない。著者が提言する「読む技術」というものを頂戴できるように、最初から読むべきである。
 本を開くと「はじめに」があるが、ここでハッとさせられる。「本」というものについて、「おそらく最も安価かつ効率的に知識を習得できる優れた道具です」と書いてあったのだ。本が高くなった、と嘆き、毎月の本代を気にしている私にとって、それが「安価」というのは何を言うのか、と一瞬思ったが、これに続いて、高くても5千円で本が買えるとすると、さて「わずか」5千円で貴重な経験ができたら、人生観が変わるような体験ができたりするだろうか、というような問いかけを受けることになる。確かにそうだ。
 しかし、分からないままに読んでいくのではその体験ができない。「読書は技術である」というのが、本書のテーゼなのだそうである。
 そこで早速内容に入ると、まず本のタイプを知ることが決定的に重要になる、という。著者はこれを「登山型」と「ハイキング型」とに二分し、以後この分け方を基本として、本の読み方を教授していくことになる。詳しくはもちろん本書をお読み戴きたいが、ざっくり捉えると、前者は、登山のように一つひとつ積み重ねて読んでいくべきもの。時に、実に登りづらい何度の高いコースが控えていることがある。後者は、論理的構築を犠牲にしても、書いた人が見た風景を様々に提示していくものである。
 また、それに先立ち「閉じられた」本と「開かれた」本という概念でも二分を考えていた。前者は、その本の著者が自分の論理を本の中で構築して完結しているもの。読者はそれにとにかくついていくしかない。後者は、著者が見ている風景を読者も追体験すべきもので、何を言いたいのかを完結するのは、その本の内部ではなくて、読者の側に向いているという。読後に、この本は言いたいことが強く言われていない、「で、何なの?」と思わせるので物足りない、というコメントを、本の通販サイトに書いている人をよく見かける。そして評価を低くしているが、これは本書の著者に言わせるならば、完全に本の読み方を間違えており、読む技術が身についていない、ということになるのであろう。つまり、その本は「開かれた」本なのであって、それは本の著者が自分の考えをその中で完結させて「どうだ」と示すつもりない本なのである。読者はどう考えるか、問いかけているタイプであるのに、そのコメンテーターは、自分が問いかけられていることに気づいていないようなのである。
 しかしここで私はまたハッとした。これは教会の説教でもはっきり分かれるではないか、と思ったのだ。説教者が解釈したもの、辿った道筋をとにかく厳密にきっちりと語りきるタイプのものがある。他方、言いたいことはそれなりに分かるが、その説教が内的に閉じられているのではなくて、聴く会衆一人ひとりがその言葉を受け止めて、そこから理解したり、行動したりすることを必ず要求するものがある。私が語るならば後者である。しかし前者もある。一つには、学者タイプの人で、きっちりと自分の受け止めたことを緻密に構築して示すものがあるが、他方では、説教の「せ」の字にもなっていないもの、つまり聖書のその箇所についてよく調べたこと、「お勉強」したことをまとめた作文を読み上げるものである。そのどちらも私は知っている。こうしたわけで、この読み方の二種類は、たんに読書だけの問題ではないということを重く感じた。
 もうひとつ、読み方の二分がある。「同化読み」と「批判読み」である。これは読者の側の姿勢によるのであるが、本の論理をとにかく正確に辿ることを目的とする読み方と、そこに何か拙いところがあるのではないか、あったとしたらどうしてか、を考えたり指摘したりするような読み方との違いである。
 本書の著者は、ここでは、いわゆる名著とされているものを取り上げており、それを丁寧に読んでいく読み方を教授しようとしている。だから、難解だといっても、それは書いた人のせいでもないし、訳者のせいであることも稀だとして、分からない時には書いた人の論理破綻なり書き損ねた事情があるかもしれないとは思いながらも、概ね読者の側の読み方に問題がある、という前提を立てている。
 それで、何十時間かけて一度通読し、その後その何倍かの時間をかけて詳細読みをするのだ、という、いわばプロの読み方をここでは想定して、それもノートを取りながら読むという技術を教えている。実にそれが、本書の「読む技術」なのである。40枚のノート一冊が、その名著一冊を読み解くために用いるノートである。これにどのように書いていくか、それもどうぞ直に本書で確かめて戴きたい。具体的なノートの画像が、著者の研究室の学生の実際のものとしてもまとめられている頁があるので、参考になるだろう。
 内容はこれくらいの単純なものではない。様々な本のタイプがある。その内部で事足りるものや、外部の援助を必要とするものなど、様々なタイプの本があるので、意識しておくことが大切だという。
 本好きな人、ともかく丁寧にテキストを読み解く経験のある人には、これほどまでのことはしたことがない場合が多いだろうが、言っていることは私は分かる。ノートの方法は少しばかり違うが、私も哲学書を、一定の目的で読もうとするときには、確かにこのようにやっていた。そうだそうだ、などと思いながらも、あれは若い頃だったからこそできたのであって、今はもう無理だなぁと溜息をつくのだった。
 なお、本書そのものを読む技術が身についていないといけない点については、さすがに著者は触れていなかったが、案外そこから学ばなければならない人もいるかもしれない、と少しだけ案じた。私にしても、最近は全然適切には読めていない。読んだときには感動しても、何が書いてあったっけ、と後で分からなくなることがしばしばである。だから、そういうときに思い出すきっかけになればよいと思い、このような書評めいたメモをつくることにしているのである。




Takapan
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