『何ものかになりたい』
熊代亨
イースト・プレス
\1500+
2021.6.
精神科医が著者であり、ブログで、いろいろ発信を続けているという。サブカルチャーに詳しい模様だ。だが、そちらの分析や批評に走るものではなく、今回は、唯一のテーマに寄り添うことにした。いわゆる「アイデンティティ」である。
こうもじっくり、否じっとりと、1冊をかけてひとつのことだけを話題にするとなると、読者は退屈を覚えるかもしれない。しかし、ひとつのことを凡ゆる角度から検討する、というのは、実は大切なことである。目まぐるしく様々話題をもちかけてくるのは、物知りのようで、実はそうでない。問題の根っこを見つめるとか、問題点を検討するとか、そういうことを一切省略して、自分の知っていることだけをするすると見せてゆくだけなのだから。
タイトルは「何者かになりたい」。この誘いも悪くない。「アイデンティティ」を掲げると、すでに若い子たちから敬遠される。但し、表紙にその言葉しかないというのは、第一印象として、その内容を見抜きにくい。帯が付いていたら何か書いてあるのだろうとは思うが、少しばかり内容に関わるサブタイトルがあってもよかったかもしれない。
あるいは本書は、「はじめに」にあるように、「自分とは、いったい何者なのでしょうか」という言い方で、つまりは「自分探し」が問題である、とすることもできただろう。指向する「何者」のほうをタイトルにしたが、主体である「自分」が根柢にある。だがその自分というものの存在を疑ったり、自分を変えなければならないと考えたりする方向へは走らない。そこが、本書が哲学ではない理由のひとつである。「自分」はさしあたりここにある。それについて深入りはしない。ただ、その自分が、何者かであるというレッテルを求めているにも拘らず、それが分からない、というわけである。
短くいうならば、「承認欲求」の問題や、「連帯」あるいは「他者」から自分を見出すことなどが、実例豊かに説明されてゆく。こういうことがあるだろう、こんな経験はないだろうか、と若い人たちが一度は陥るような思考や悩みにどこか引っかかるように誘いかけてゆく。
それからいよいよ「アイデンティティ」という語を持ち出す。概念的にこれを考えたことのない人には、学問的なものと感じさせるリスクはあるが、使うようになれば便利な語である。心理学的にそれを広めたのはエリクソンの功績だが、それを簡略化して、少しでも分かりやすいように言い換えている。「自分はこういう人間である」という自分自身のイメージを構成する、一つひとつの要素のこと、なのだそうである。つまり、「自己同一性の確立」というような概念規定の必要な用語を避けて、少しでもとっつきやすいようにしたのであろう。
これを、「わたしはわたしである」あるいは「わたしはわたしらしく生きている」といった確信に近い感覚のこと、とするよりも、「イメージ」というふうに近づけてきたことになる。しかし、「感覚」ではなく「要素」とすると、本書の進む方向への恣意的な変更が感じられないこともない。いかにも「わたしとはこれだ」というような、実体的な方面に心が向いてしまいそうだからである。本書を求めている若者は、まさに自分とは「これこれ」だという、他者から見てのイメージが欲しいのである。誰かに認められたい欲求のための願望なのであって、孤独な思索における純粋な自己の存在を問うているのではないのである。
そうして本書は、思春期における大きな関心として、恋愛あるいはその先にある結婚というコースを話題にする。これも、やはり他者問題である。自分という像を形成するのは、他者からの眼差しである。そして本書の読者として想定されているであろう、青少年世代に軸を一度戻して、いまの自分というものを顧みる機会を設ける。
それでその先大人になるとこうだよね、というふうな著者世代の姿も垣間見せるが、著者はまだ40代である。老年の境地というものは、さすがにまだ描けないようだ。読書たる青少年にも、それは不要だと判断したのだろうが、さて、著者自身は、そこまで想定しているのだろうか。
最後には、それまでの理論風な展開から中座して、「処方箋」という形で、より実践的に、いま君ができることはこういうことだ、というものを提示する。若者にはこれが必要だ。「で、どうすればいいんだよ」と不満を抱かせてはならないからだ。
しかし、ここまで引っ張ってきておいて、アイデンティティについて悩まないタイプの人もいるよね、と卓袱台をひっくり返すようなことまで飛び出してきたので、思わず「おいおい」と言いたくなった。「そういう稀な人を読者としていないので、あなたがそのような人である可能性は低いと思っています」などと、終了何頁か前で書かれると、その稀な人がいたとして、ここまで読んできた私は何なんだよ、と、自分は何者なのか、と悩むことになるかもしれない。いや、そうするとその人はアイデンティティに悩んだので、やっぱり本書を読む意義があった、ということになるのだろうか。面白いパラドックスだ。
ネタバレのようなことをするかもしれないが、この最後の「補論」というおまけのような形のところでは、ほかにも、コミュニケーション能力の高低は、アイデンティティの獲得の難易に直結する、などと言い始める。それならば、コミュニケーションに悩みを抱えているとき、アイデンティティも遠くなる悲しさを与えないだろうか。それというのも、著者が思い描いているアイデンティティというものが、他者から見ての自分という角度に収まっているために、コミュニケーションは必要な条件になるのである。しかし、神の前の自分というような、孤独でも構わないあり方としてのアイデンティティを理解するときには、人とのコミュニケーションはさほど重要なものではなくなる可能性がある。もちろん神とのコミュニケーションというものはあるが、本書か最後に付け加えているのは、そういうものではない。コミュニケーションが苦手な人はアイデンティティの確立が難しくなる、とかなり断定的に述べているのである。
アイデンティティという語は、元来、身分証明のことをいう。それを心理学的な研究対象としたことから、新たな意味で考察されるようになったと言えるだろう。それがまず自己同一性ということで、人間ひとりでの問題として掲げられ、それが次に、他者や社会に対するものとして意識されてゆく、それが私のイメージである。まず最初の自己における同一性という問題は、本書の埒外であった。だから、本書でコミュニケーション不全で絶望を食らったような方がいたら、申し上げたい。他者とは関係なしに、あなたはあなたであるし、あなたはあなたであってよいのだ、そのような捉え方も、ちゃんとあるのだ、と。

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