本

『なんで ぼくだけ こうなるの?』

ホンとの本

『なんで ぼくだけ こうなるの?』
ヤニコヴスキー・エーヴァ文
レーベル・ラースロー絵
マンディ・ハシモト・レナ訳
文渓堂社
\1470
2010.3.

 絵本である。だが、文が長く、文字も小さい。一頁の中に、シンプルではあるが四つほどの場面の絵が細かく描かれていて、次々と場面が展開する。枠こそないが、これはいわばマンガ、つまりコミックスである。
 単純な絵と、分かりやすい内容は、やはり絵本ではあるのだろうし、何より、語り手でもあるこの主人公の男の子は、小学校に入学する時期の子ということで、子どもの視線で描かれていることも間違いない。
 だが、これは大人の心に、ぴん、と張り付いてくるのである。
 客観的に、親としての自分がしていることを、見せつけられるからだろうか。この子は自分では自分なりにやっているつもりなのに、親にすぐ叱られると言っている。子どもは、何故自分が叱られているのか分からないことが多いのだ。親としても、少しばかり経験が出てくると、そのくらいのことは分かっている。分かっているのに、やはり叱ってしまう。なんとか分からせよう、と。だが、本人は、訳も分からず叱られているという現状が続くことになる。
 ぼくはそんな悪い子じゃないんだ、と主張する。この子が入学式で、校長先生に喜んで迎えてもらい、そんなに待っていたのなら、もっと早く来ればよかった、と呟く。当たり前すぎるほどの理屈だ。だが、大人の目線で、そんな発想はすることがないものだ。担任の先生が、今日から二番目のお母さんだよ、と説明すると、2人になると本当のママが怒るぞ、と身構えますが、ママは喜んでいる。ちょっと不思議な気がするみたいだ。
 ほかの子にいろいろされて応えているうちに、自分が悪い子だとされ、パパが先生と面談をすることになる。パパは、ほかの子はともかく先生に言われて恥ずかしかったぞ、と説教をする。そんなパパを、この子はかわいそうに思う場面がある。そんなふうに思うことなどあるだろうか、と人は思うかもしれない。だが、私の三男が今入学式を終えたばかりのところである。私は思い当たる。こんなふうに、子どもは親のことを見ていることが、確かにある、と。
 家庭訪問のときの家族の変貌ぶりに目を見張る。誕生日にプレゼントをもらうが、それで遊ぶことには非常な制限がかかることを不思議に思う。うるさいと怒られるのにハーモニカを吹くのを止めないのは、「どうせ厭きるよ」と口にしたパパに対する抵抗だったりする。負けない、って。
 お姉ちゃんの成績がよくなかったのは、部屋が散らかっていて勉強できる環境にないから、などという理由にされ、家中が整理される。ぼくのオモチャは勝手に捨てられるが、ママの愛着のある人形だけは捨てられることがない。そんな様子をも、ぼくは見ている。そして、そのことにこだわらない。ただ淡々と描写しているだけである。そこがまた、いい。変な論理も、理屈もそこにはない。ぼくの目から見た、家族の姿。自分から見える世界にあるもの。それは、信頼に価するものとして描かれる。それでいい。
 お姉ちゃんにかけられる家族の期待もなかなかである。そして、そこから後半は、犬がいなくなる事件が描かれる。この主人公の男の子のことを、抱きしめたくなるほど可愛いと思うエピソードだ。今、それを明かしてしまうのは、惜しい。惜しすぎる。
 ハンガリーの作家による絵本である。ほかの作品も何冊か邦訳されている。日本人から見ても、さして違和感なく読める内容であると思う。
 それにしても、子どもから見られている親が描かれると、本当に恥ずかしい。常々言うように、絵本は、もっと大人が見るべきものである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります