本

『名もなき花たちと』

ホンとの本

『名もなき花たちと』
小手鞠るい
原書房
\1300+
2019.6.

 戦争混血孤児の家「エリザベス・サンダース・ホーム」
 副題らしくないような副題が添えてある。児童文学である。振り仮名もあり、文字が大きく学校の教科書に漢字の明朝体を入れたようなデザインだ。多作の作家で、世界中の子どもに呼びかけたいような愛情が溢れている。作家の声はそう面には出て来ないが、確実に伝わってくる。淡々と綴るのが、子どもにとっては読みやすいものだと思う。いや、おとなも同じだ。主張や感情が強く迫るものは少しばかり重い。不幸なことも、楽しいことも、できるだけ淡々と綴っていく。それだからこそ、読者は引きこまれる。
 名もなき花というのは、最初に問いが投げかけられている。これは澤田美喜本人が亡くなる直前に書いた文章の一部から取られた言葉であるそうだ。しかし大人ならぱ訊かれなくてもそれが何のことだか分かる。多少関心のある人ならば、澤田美喜という名前でどういうことが描かれているのか予想できるはずだ。とはいえ、私もクリスチャンでなかったら果たして知っていたか、関心を寄せていたかどうか、知れない。以前「知ってるつもり?!」というよい番組があったが、それでも取り上げられていたのを思い出す(1990年9月23日放送)。
 戦後の混乱期、いわば棄てられて孤児となっていた子どもたち、その多くは米兵と日本人女性との間に生まれた混血児であり、しばしば肌の色が黒かったともいうが、そうした子どもたちを引き取り育てる施設をつくったという女性である。ある意味でGHQと闘ったという言い方もできるが、そうした視点から描いたノンフィクションの本もある。
 こちらはこども向けである。子どもの理解の中で理解できる仕方で、澤田美喜の人生と視点を描き、何をしてきたか、どんな出来事でそう動いていったのか、が書かれる。論点も整理されており、大人が読んでも当然分かりやすく、胸打つものがある。
 子どもたちの具体的な姿から紹介し、戦争孤児という問題を早く掴ませる。しかし、孤児当人にとっては、どうだっただろう。どうして母親は自分を棄てたのか。このわだかまりが、その子の一生を、恨みや憎しみで満たしてしまうかもしれない。そして私たちは容易にこれに答えることができない。しかし澤田美喜は答える。生きることの難しかった戦後の時、母親は自分が餓死することを選び、子どものほうは生きる道に置いていってくれたのだ、と。もうこれだけで私は涙が落ちる。その子の人生を預かり、育むということは、このような眼差しをもって、その子の心を大切にするということなのだ。こういうのを、愛と呼ぶのだろう。福音書を目の当たりにするような気がしてならないのだ。
 短く区切られた中で、場面場面を描き、人生が展開していく。小学生にも読みやすいように工夫されているものだと思う。そんな中、珍しく作者の強い主張がぶつけられるところがある。混血児がひどく差別的にいじめられたことを描くところである。
 差別とは、無知から生まれるものです。
 この記述に、背筋がぴんと伸ばされる。続けて、こうも記す。
 無知というのは、知識がないこと、何も知らないこと、知ろうとしないこと。知恵がないこと、おろかなこと、という意味もあります。
 たたみかけるように、子どもの、あるいは大人の読者の心に、迫ってくる。これを澤田美喜が直接どこかで書いているようなことがあったのかもしれない。あるいはこの著者の言葉なのだろうか。どちらか知れないが、ここは本書のひとつの華ではなかろうか。  幾人かの子どものエピソードが取り上げられる。大人にとっては、もっと別のことが記されていたほうが伝記らしいと思うかもしれないが、子どもの視線にとっては、そこに生きていた子どもの具体的な姿が、たぶんいちばん親近感をもてるものだろう。よく考えられている。
 しかし、本書の記述は、そうしたある子のエピソードと共に突然終わる。澤田美喜の最期については、それまでにも軽く触れられていたが、普通なら伝記はその死で終わり、彼女の遺志はいまなお……などというように結ばれるところであろう。それが、「はじめに」で本書のタイトルの言葉が出て来た、澤田美喜の言葉と同じ本の、本人の言葉で、本文は突然閉じられる。人と人を結ぶかけ橋こそ、私の夢を実現し得たことである。そう告げ、感謝の気持ちを述べている澤田美喜の言葉で、ぷつんと終わるのである。
 私は違和感を覚えた。この後に改めて置かれた「あとがき」は、どちらかというと大人に向けての挨拶だ。子どもが目を通してもいいが、明らかに大人相手に語っている。どうして、エピソードとその子についての澤田美喜の本の言葉で終わったのか。最初の「名もなき花」についての問いかけの結びであることは分かる。だが、何か最終回らしくないドラマの終わり方を見たようで、気持ち悪い。
 そこで、私は気づいた。そうだ、これは最終回ではないのだ。澤田美喜の志は、その死により、あるいはこの物語の結末において、「はい、終わり」というものではないのである。いまもなおその思いは続いている。澤田美喜の願いはそこで完結したのではない。いまこのエリザベス・サンダース・ホームのことを知った読者が、その場でそこからまた、この物語を引き継いでいくのだ。差別されている子ども、辛い境遇に置かれて悩む隣人を、自分のことのように受け容れ、支える言動へと、私たちがいまここで導かれており、私たちがこの本の続きを生きていくことになるはずだと引きいれているのだ。読者が自分と離れたところでこの澤田美喜の生き方を眺めて、本を閉じてしまってはいけないのだ。物語は、むしろここから始まっていく。まして私たちが差別をしてはいけない。もう「無知」ではなくなったのだから。
 澤田美喜はクリスチャンであり、そのための動機が最初のほうに触れられているが、なにもキリスト教の宣伝のためにこの本は書かれているわけではない。後半はそのことは強調されない。しかし、最初におかれたその信仰は、きっと読む子どもたちの心に、何かを気づかせてくれることだろう。そして、クリスチャンの大人はまた、自分がそのようなことができていないことを省みる機会となり、いつでもどこからでも、人生を変える準備ができるという気持ちにさせて、また新たな生き方がスタートできるのではないだろうか。
 そんなふうに計算しているというよりも、著者は、そんなふうに願っているに違いないと私は思っている。
 なお、NHKのアーカイブに、かつての映像を見出したので、ご紹介しておく。
 ここに鐘は鳴る 澤田美喜




Takapan
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