本

『中村哲物語』

ホンとの本

『中村哲物語』
松島恵利子
汐文社
\1600+
2022.7.

 日本人の多くは、2019年12月に銃撃され亡くなった事故の報道で、初めて知った名前ではないだろうか。
 福岡の人である。福岡高校から九州大学というのは、地元での一つの理想のコースである。クリスチャンであり、福岡が事実上の本拠地である教団の関係者でもあったことから、福岡の教会にいると、哲さんのために祈るということは、普通に呼びかけられていた。ペシャワール会の声もよく届いていたし、アフガニスタンでどういうことがなされているか、についても、それなりに情報が入ってきていた。日本に戻ったときには、福岡でも幾つかの教会を回って講演をしていた。私は直接お会いする機会はなかったが、馴染みのある方であった。NHKが取材番組を放送するときがあると、必ず見ていた。
 銃撃後に、中村哲さんについての報道や出版が相次いだ。それが、三年も経つとその熱は引いていくものである。そこへ、子どもたちが読める形で、今回出版されたところに心意気を感じる。それだけ、どうしてもこの人のことを伝えて行かなければならない、という思いが人々の中にあり、ライターの心を動かしたのでもあるだろう。
 いつも言うが、子ども向けの本は、ぜひ大人にも読んで戴きたい。無理なく読めるし、書かれてあることはすべて吸収できるはずである。難しい本を読んで表面しか分からないよりは、子ども向けの本をすべて理解し、深く思いを馳せるならば、きっと有意義なはずである。
 本書は、実に淡々と綴っている。ライターの腕だと思う。書き手が妙に感情交じりに書くと、読み手はむしろ引いてしまうものである。言葉の力は、背後にある心を伝える。それは万人に伝わるものではないかもしれない。だが、伝わる人には伝わる。しかも、強烈な感情の波動が、読者に及ぶ。本書はこのタイプである。
 その点、ペシャワール会からも全面協力を受けており、多くの写真を掲載することができた。これが子どもたちにも分かりやすいし、大人にも、ぐいぐいと入ってくる。哲さんの活動と生い立ちを知らせるには十分な写真が載せられている。カラー写真は巻頭だけであるが、これは本書をすべて読んだその後に、再び見るとよいだろうと思う。改めて、色のあるその世界が、なにかしら実感できるのではないだろうか。
 日本の国会での発言のシーンが、いま心に浮かぶ。アフガニスタンの貧しい人々を救う必要のある訴えに対して、テロリストを支援するのかとヤジすら浴びたのだという。人の命よりも建前のほうが圧倒的に大切である、政治の論理というものがよく現れていると思った。これを読む子どもたちにも、きっと心に残る場面ではないかと思う。
 信仰のことは、あまり書かれていない。だが、キリスト教徒であることはきちんと表に出しているし、だからまた、イスラム教の人々の中に入っていった事情や、そこでの考えについて、子どもにも伝わるような方法で綴られていたと思う。これもまたライターの腕前であると言えるだろう。
 自分のやり方を決して押しつけることなく、相手をまず受け容れてから接する。この姿勢が時折現れてくるので、子どもたちの心にも響くのではないだろうか。響いてほしいと思う。
 銃撃については、子どもに対するという点も顧慮してなのかもしれないが、詳しくは語られない。それは悲しいことだという点はきちんと触れるが、そこから憎悪へと結びついていくようにはなってほしくない、と考えてのことであろうと思う。大切なのは、このように哲さんのことを紹介することで、それを知ったあなたが、これからどう生きるか、どう生きたいと思うか、ということなのである。
 なんだか、哲さんの生き方を記すこの本が、聖書のような力をもっているような気がしてきた。あなたに呼びかけて、あなたを変える。あなたの力が向かう場所が、アフガニスタンでなくてよい。倒れている人がいたら手を差し伸べる。倒れている人は、たくさんいる。これまであなたは、気づいていなかっただけだ。その人に気づくような感覚を、本書は育んでくれるのではないだろうか。
 大地をうるおし平和につくした医師――タイトルの冠のように掲げられている言葉が、青い空の写真をバックにして、黄色で輝くように迫ってくる。考えてみれば不思議な組み合わせの言葉だ。大地と平和と医師なのである。およそつながることが考えられないような事柄を、私たちは結びつけることができる、その可能性をもっているということを、ここから知るような思いがする。
 本書の刊行に寄せて、ペシャワール会の会長が、巻末で語っている。哲さんは、「戦う、正義、防衛」を一回も発信していない、と。これは大きなことである。国民を守るために、防衛が必要だ、正義のために戦うのだ、というのが、ありがちなスローガンである。そしてそれは勇ましく頼りがいのある姿にも見えいかにも正しいことのように聞こえる。だが、哲さんはそんなことを一度も言わなかった、というのである。私たちは、ここにこそ注目し、この点をこそ、声を挙げて知らせなければならないのではないか。それは「戦わない」を貫き通した生き方であった、とそこで説明されている。




Takapan
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